日記・コラム・つぶやき

2022.02.14

次のドアにノブは付いているか

 

「名声やカネではない。ただ本当のことが知りたかっただけだ」

昭和40年代後半、コンピューター付きブルドーザーと畏怖された大物政治家 田中角栄の金権構造を、緻密な取材と卓越した執筆力ですっぱ抜いたジャーナリストの故・立花隆は当時そう言い放ったそうだ。もちろん前者がなくていいと思うはずはなかろうが、それより後者が勝っていたということなんだろう。そうだ、僕らはずっと「本当のことを知りたい」と思っていたはずだ、何ごとにおいても。


インターネット社会になり、概ねのことは瞬時に調べがつくようになった。デジタルネイティブの子供たちが青年期を迎え始めた昨今、若年世代のソーシャルにおいてそれは何ら不思議なことではないことは今や周知だが、ほんのちょっと前までは知りたいことは図書館や公文書館などへ身体ごと移動し、全身を使って得るしかなかった。

イラストレーター駆け出しの頃、受けた絵の発注の中にアルマジロがあったことがあった。もちろん今ならネット検索で済むことだが、当時はまだ携帯電話さえ持っておらず、クルマで図書館まで調べに出かけた。

短時間で済ませばと、建物脇の通行量の少ない道に停車。当時はまだパトカーがチェックし次の巡回までに動かしていなければアウトという、やや優しいものだった。またそこは滅多に車が通らないので無料パーキングのような道路だった。何冊かの動物図鑑を借りて小走りで戻ったところ、なんとサイドミラーには例の黄色い「輪っか」が(40代中盤以上の方はご存知かと)しっかと回されていた。

そんなことをもちろん彼らは体験していないだろうし、似たようなことを体験した世代だって今や思い出したところでせいぜい経った時間の長さを嘆く自分が待っているだけで、何の意味もないことだと知っている。というか、そんな時代を思い出す行為すら今となっては忘却の彼方かもしれない。

 

 

 

しかし「本当のこと」はどうだろう。依然としてこれは渾々沌々、よく判別がつかないのではないか。

ネット検索を駆使すればある程度それめいたものをいくつか取り寄せることはできるだろうが、それは「本当そうな情報」に過ぎない。結果これだと行き着いた答えという名の部屋の中には、誰かの手による屏風絵があるだけだったりする。ネット空間にはそんな小部屋がいくつもある。しかし「本当」などそんなものなのかもしれない。

しかしその屏風絵を見たからには、僕たちにはその是非を決める義務が生まれてくる。いろいろなことが手軽に知れるようになったと同時に、これが本当ですと提示されればそれを一旦は受け取らねばならない。そんなことを繰り返すうちに、それ以上向こう側を見に行く気力も失せ、想像することもパスするようになってしまった。

何もしていないのに何もかもし尽くしてしまったような茫漠とした気持ちが人々を包み、本当のことを知ったところでどうせ何も変わらないとすっかり「知」に対して億劫になってしまっているように見える。なのに人々は、まだどこかにそそられる「興味」は残っていないかと、家で外で昼夜問わず小窓のスクリーン上を上下左右に指を動かしているのだから。矛盾撞着である。

 

携帯化したデジタルデバイスの普及やネット社会を腐すつもりは毛頭ない。弊害よりもベネフィットの方が大きいことは前世紀の自動車社会の到来と同じく、なにより自分だってその恩恵に随分とあずかっているのだから。

しかしこれは意外なことだ。ジョージ・オーウェルの書いたビッグブラザーは影の支配者などではなく、進んで小窓装置を買い求めた僕たち自身のエモーションの中にいたということか。

真実を握りしめたいとザ・ブルーハーツは『未来は僕らの手の中』でそう歌った。あれから40年近く経った今、僕たちはまだそう思っているのだろうか。今本当に知るべくは、おそらくそこではないか。

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2021.03.31

この10年で

 

震災から10年目の3月が終わろうとしている。

3年半ぶりの更新がこの内容であることには
本当にやるせないのだけれど
毎年3月が終わるとあっという間に
報道量が減ってしまうことには強い懸念を覚える。
それは僕だけではないと思いたい。

 

先日ドキュメンタリー番組で福島第一原発の廃炉作業が
この10年でどこまで進展したかをやっていた。
結論から言えば、状況は依然として絶望的。

相当困難であるだろうことはもう当時から言われていたが、
それでも予想を上回る遅延具合に改めて愕然とした。

メルトスルーした3棟の建屋には、それぞれ核燃料が溶けて
周辺の設備を巻き込み固まったデブリと呼ばれる固体が溜まっている。

その取り出しが福一の廃炉作業の主眼だ。
これを取り出せねば建屋内部の本丸には近づけない。
近づけないから取り出さねばならないのだが
放射性物質が強過ぎて近寄れない…という
まるでマンガのようなジレンマがあそこには
真顔で横たわっている。

デブリは推定で880トン。
この10年で取り出せたのはたったの0.02gだという。
もう一度言おう。状況は依然として絶望的だ。

 

ではいったい何が進展しただろう。
ひとつ顕著なことが思い浮かぶ。それは
ものを言うことが以前より難しくなったということだ。

これは進展というより後退というべきだろう。
恣意的なスティグマ貼りが極端化してきた
ということでもあるようにも思える。

もちろん平成以前は無整理・無頓着にものが
言われ過ぎたきらいがあったということは解っている。

しかしそれはその分なにかの力に臆することなく
大多数の人が意見をいえて、どんなセンテンスも
「人の考え」として捉え、なんらタブー視しない
空気が「通常」としてあったということでもあった。

これはなにか意見を言えばひどい目にあった大戦下から
人々が学んで構築した空気だったはずだ。

ここ10年でモラハラやパワハラという言葉が社会に定着し、
差別や言葉による暴力に対して非常に敏感になった。
このこと自体は弱者や被害者の救済につながる良いことだ。

だが一方で、そうとも言えないことにまでそれを適用させ
自分あるいは会社にとって不都合な相手の排除や
社会の空気をコントロールすることに利用するといった
「方便」化するケースも増えてきたのではないか。


最近は、各地の原発を再稼動させようとしている空気が
いろいろな角度から感じ取れるようになってきた。
また原発の必要性についての議論を
しにくくさせようとしている雰囲気も
五輪の決定以降じわじわと復旧してきた感がある。

原発事故の追求は「被災地への侮蔑だ」「風評被害を煽る」といい
稼動の可否の議論をタブーにさせる動かしたい人々の思惑というものが
うまく先述のロジックを利用していたりしているのを感じる。

 

10年経っても未だに触ることがやっとのデブリが
途方もない量残っている。当然その処理方法も
決まっていない。汚染した冷却水も同じく。
何も解決していないのになぜ動かすことができようか。

 

「風評」とは根も葉もない噂話のこと。
これは「風評」でもなんでもない、「事実」だ。

10年目の3月が終わろうとも
臆さずに語り続けねばならない義務が僕たちにはある。
そしてこれは当分続く。




 

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2017.01.07

もうなのかなのか


*


もう七日なのか

この言葉も例年吐いているような気がするが、大晦日からもう1週間が経つ。年をまたぐと1週間前のことが実際よりももっと以前のことのような感覚に陥るというのが不思議だ。例えばクリスマスが2週間前ではなく、もっと過去にあった感じがしないだろうか。

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それはもしかすると太陽の光の加減が年をまたぐと事実ぐっと変わるのかもしれない。と、九州に来てから強く思うようになった。日本古来の旧暦=太陰暦で測らなければつじつまが合わないようにも思えるが、福岡県福津市の宮司浜のこの季節の夕暮れを見ていると、新暦=太陽歴でもこの仮設は不思議と当てはまるのである。

ここの海岸の入り口には鳥居があり、それと1kmほど内陸に入ったところにある宮司嶽神社の鳥居とが参道を介して一直線に結ばれていて、年に2回その鳥居の中にスッポリと嵌るように落ちる夕陽が拝める。それを待たずしてもこの時期のここの日没は神々しい。やはり12月の雰囲気と今月とではがらりと変わる印象が僕にはある。

その昔は交易の要衝で、さまざまなことがこの界隈を中心に決められたのではないかと推測される九州北部は尚更その感があるのだろうか。大晦日と元日のたった数時間の間に「旧年」と「新年」があるこの時期は、「時間の経過」の何たるかを教えてくれているようにも思える。大切に生きろなのか、早く成し遂げろなのか、それとも諸行無常、なのか。

生命がある、ということのほかに動物も昆虫も植物も平等に晒されているものがこの「時間の経過」だ。この惑星に乗っかっている限り、みな同じ速さの時間経過の中で息をし何かをしている。と、考えると自分以外もソコハカとなく愛おしく思えて来るし、幾ばくかの責任も感じるし、やり切れなさも感じる。少なくともオマエは生きている価値がないとかあるとかの議論が浅く愚かに聴こえるようになる。

今年はどう生きるか、いつもは重要なことをはっきりさせずにヘラヘラしている僕らもこの時くらいは真顔で考えても良いと思うがどうだろう。


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2015.07.19

雨は上がる

今日、九州から関東甲信越地方にかけて梅雨が明けたようだ。


震災から4年と4ヶ月。随分と時間が経った。
年初にここで「大殺界が抜け…」なんて書いたので、いい加減明るいことを考えねばと思うが、なかなかそうさせてくれずに半年。時世のせいばかりにしたくはないが、どうも世の中が僕たちが行きたい方向と逆に向かっているとしか思えず、何をしていても心に暗雲が暗く垂れ込めて来る。

戦をする準備を始めているようにしか見えない現政権や、明らかに迷走しているゲンパツの後始末、何もなかったかのように進められる再稼働。税改正で更に取り壊しが進む古い街並みと、闇雲にビル化して行く宅地。そして頻発する地震や火山活動… 今となってはあの震災がこの暗澹たる時代の火ぶたを切ったかのようにさえ思え、こうなって来るともう一個人ではどうしようもないようにも思える。


そんな中でここ最近注目を集めている《SEALs》という若者たちにはとても勇気づけられた。彼らの前身団体の集会の動画である若い女性の演説を観たのだが、彼女の主張には驚いた(「みきちゃんのスピーチ」で検索)。

それは単なる反戦讃歌や政権へのがなりたてではなく、むしろ内側に向けられた自戒的内容で、自分を含め個々人のマインドの持ち方について語っている。少々“青年の主張”的ではあるものの、50年代のアングリー・ヤングメンや僕が十代の頃聴いた英国のポップミュージックにも共通点があり、ややもすれば揚げ足を取られがちな右か左かの“どっちの翼”論も超えた論旨。まさにこういう話が聴きたかった。

もし参議院で法案がムリクリ強行可決されたとしても、次代には彼らが控えていると思えば何の心配もないような心持ちになり、悪政が皮肉にもしっかりとした次世代を育ててくれた感に溜飲も下がった。

*
彼らのように大きなデモやパレードには参加したくとも物理的にできないという人もいるだろう。しかし僕たちがそれぞれの場所でやれることはある。それは人と話すことだ。仮に解り合うことができなくとも、タブーを作らずお互い思いのたけを話すこと。そしてそれを常日頃からすること。一個人の力では何も変えられないように映るこんな時代だが、変化の風とはいつも個々人の足下から起こるものだ。

この在京中の2ヶ月間、毎日のように人と逢っている。会社員時代、営業職をしていたとき上司に「苦手な人ほど会いに行け」と言われたが、そんな人が周囲にいない今日はご無沙汰していた人から順番に我が家に招いたり、逢いに行ったりしている。僕にとってこれはむしろ生理現象に近い衝動で、それはどうやら周期的にやって来るようだ。

ちょうど会社員生活にピリオドを打った20年前も何かに取り憑かれたように友人知人に逢いに行った。そして毎晩のように友人と話す夢を見たのを細部まで覚えている。あの1年間は寝ても覚めても誰かと対話していた。思えばあの頃も今同様、これからどうして生きて行ったものかと懊悩輾転(おうのうてんてん)としていた時期だった。

瞳の奥を確認しながら話す時間は、僕らにバイタリティとヒントをくれる。人はひとりでこの世に出て来てひとりで去るが、それは自分ひとりだけではない。みな平等に「ひとり」なのである。そのことを覚えておけば、自分がどのような境地にいようと、疑心暗鬼になったり誰かと比較して落ち込んだりおののいたりする必要はない。生きている限り今日も僕は誰かと逢い、話をする。


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2014.10.31

仕事の向こう側にあるもの

*

(前回のつづき)

その『LAUNCH A ROCKET』が先日火災で焼失した。Facebookでそれを知った瞬間脳内が真っ白になり、今年はいったいどうなってるんだろうと再びイヤな気持ちに襲われた。出火元は店外だったらしく、Fさんは友人と共に店内にいたため大切なモノだけはギリギリ搬出できたそうだが、在庫商品など多くは失われた様子。何より30年近く苦楽を共にした店舗を失ったことは想像すら難しい。そこまで使い続けた仕事場を失うというのは一体どういう気持ちなのだろうかと思い巡らすも、僕が知っているのはその中のほんの2~3年に過ぎず、自分のこととしてうまく置き換えることができない。


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即座に連絡をとも思ったが、そんな“ 確認電話 ”は恐らくウンザリするほどかかって来ているに違いないと思い、Facebookでの静観に留めた。この後、決して礼賛するわけではないがFBの持つ素晴らしい側面を垣間見る。先ず現場の検証に始まり、焼け跡の片付け、焼け残ったモノのサルベージ、そして徐々に店が立ち直って行く様が写真でレポートされ始めたのである。オンタイムで多数の人々との相互発信が図れるSNSは「今日の昼メシ◯◯食った」よりも本来はこうした時にこそ用られるべきで、こちらの過剰な心配の鎮静に大いに役に立ってくれた。

追っかけ見ていると発見した素晴らしいことがもうひとつ、それは「人」の動き。友人は元より常連客や仕事仲間などもいただろう、大勢の人が救出したレコードを乾かしたり、デニム生地を洗浄したりしている。彼と店を慕って来たと思しき人々が両者をアテンドしている様子がレポートされていた。

このとき初めて自分に置き換えることができた。もし僕ひとりだったらどうだろう。焼け跡に単独で対峙しなくてはならないなんて、キビシい。物理的なことも去ることながら精神的に大きくへこむに違いない。そんなときは多くの仲間が本当にありがたく感じるだろう。何もしなくてもいい、いてくれるだけいいと思うだろう。そして自分が今までして来たことを初めてここで振り返ることになるに違いない。

こんなに大勢の人がこの店の復旧に駆けつけているのは、Fさんがこれまでして来たこと、そして人柄による結果の何ものでもないはずだ。思い起こせば、知り合った当時から彼はいつも「楽しそう」な経営者だった。苦しいこともあっただろうが、それを微塵も見せず常に「楽し気」に店に立っていた。嫌々サラリーマンをしていた僕が倉敷に行けば必ず彼の店に寄ったのは、そういう“気”のお裾分けを貰いに行っていたように思う。写真の中で黙々と復旧作業をしていた人々も、恐らく僕と同じくその“気”を貰っていたに違いない。


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ひとりでも快適に暮らせるようなツールや設備が巷に溢れ、それらに埋没して日々を送るような昨今、僕たちはつい自分だけで生きているかのような錯覚に陥りがちだ。が、やはりそうではない。何かあった時に手を貸し心のバックアップをしてくれるのはやはり「人」そのものなのである。ああ〜よくTVでやってるアレねという声が聞こえて来そうだが、これは政府がメディアを使いまくって推奨している例の“漢字一文字”とはまったく別。

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僕は最近仕事の向こう側にある“何か”をよく考えるようになった。たとえば音楽や映画、演芸、演劇など工業製品とは違って実際に手で触れられないようなものを僕らは「ソフト」と呼んでおしまいにしているが、あれになぜ人は気持ちを奪われ時間を費やし大きな対価を支払うのか、という事由をはっきりさせられずにいる。人生を捧げてしまう人だっているというのに、誰もそこに言及できない。

もしかするとそれこそが“何か”で、自動車や宝石や時計や家電製品やマイホームよりも役に立つものであり、そこが欠落すれば生きてゆけないのではないかとさえ思うのだ。それが仕事の向こう側にはちょこんとあり、いつも燦然と輝いて人を魅了し、生きる活力を補給しているのではないだろうか。そしてそれはどんな仕事にも存在し得る。ただし、「楽しく働いた結果」にのみ。


お金が何でも解決してくれると信じ込んでいる僕たちは、それを断たれた厳しい状況に陥ることでもない限り、なかなかそれについて真剣に考えようとしない。今夏不幸が訪れてしまった友人たちも、この機会にこの“何か”について熟考してもらえれたらと思う。奇しくも彼らに起こった出来事が僕にも考える貴重な機会をくれたという複雑な思いのする夏だったが、仕事の向こう側にある“何か”について晩秋になった今日も考えている。


*

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僕のイラストをFさんが拡大トレースしたバナー。一部焼失したが丁寧に補修され蘇生した。サスガFさん。燃え落ちて尚、彼の闘志をマイルドに象徴していると描き手は勝手に思う。


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2014.02.03

凪ぎに動くものは無し

:


1月がスッと終わった。
既に年初に書いていたブログのアップを
すっかり失念、月をまたいでしまった。

昨年の話をすると何に笑われるのかは知らないが、毎年年末になるとどこかのお坊さんがおもてに出て大きな筆を振り上げ、よっこらせとその一年を象徴する漢字一文字をしたためて「今年の一字」と掲げるのを見る。13年は「輪」と書いていた。人々の調和が云々カンヌン〜とおっしゃっているのを見るにつけ、子どもたちの複雑な対立関係から起きたイザコザにわけ知り顔で入って来た先生が、キレイごとで諌めようとする小学校時代の学級会を思い出してしまった。

「欺」「嘘」「疑」… 暴走の「暴」だっていい。ひとかけらでも良識を持って見るなら、昨年も決してポジティブな語で締めくくることなどできない無彩色な1年ではなかったか。オリンピック招致に絡んでのことはすぐ解釈できたが、どうも「輪」には付和雷同というかトンチンカンというか、日和見的印象に共感できない。まぁこの国での仏教は古から常に「政(まつりごと)」に利用されて来たんだっけと思い出し(詳しくは手塚治虫の『ブッダ』ご参照を)お坊さんたるもの、そうそう本音の言えない立場なのかもと無理矢理納得した(でも瀬戸内寂聴さんのような人もいるわけだからなぁ)

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自身をいうならば旧年は「動」だった。昨夏ここでも記したように九州への転居で東京から1000km、ワーゲンキャンパーで2日間かけて移動した。そして取材でもざっくり九州をひと周りし、1000㎞弱を走った。瀬戸内の島へもクルマと共に渡った。それに伴っていろいろな人と出会い話した。「動く」ということは単に物理的に移動することではなく、それに付随し不特定多数と出会い話しインスパイアし合うということであって、“人々との出会い”という砂金をさらいに行くような作業にほかならない。それがなく風景だけを見て廻るというのなら「動く」ことにさほど意味はなかろう。

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手を動かす「動」もあった。九州のハウスも含め、都下に残す拠点用に借りたFLAT HOUSEのリノベートではとにかく働いた。特に施工後半から引っ越し完了、片付けが一段落するまでの7・8月は酷暑と疲労との戦いに終始。その上はっきりあるタイムリミットというプレッシャーが職業柄慣れているとはいえ作業中の精神状態に影響した。“空いてる時間に作業して好きな時に移ればOK”であればどんなに楽なことかと何度も思ったが、『暮しの手帖』の編集長/故・花森安治氏が残した「人は手を動かしている姿が一番美しい」という語をちょくちょく思い出しては自分を鼓舞した。今となってはあの2ヶ月が現在の僕の新しい骨や筋肉になった気がしている。


遠方への引っ越しは、会社員の異動などとは違って自らの選択でだったものの、英断したなんてこともなく自分にとって“いつもの転居”に過ぎなかった、ということは前にも書いた。「さすが実行に移すのが早いね」と何人もの知人から褒めてもらったのだが、むしろ遅かったと恥じている。2年越しの足踏みからやっとの実行だったことは改めて明記しておきたい。

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しかし二居生活の開始は自分史の中でも初であり、人生でひとつの節目になることは間違いなさそう。二カ所と言わず複数箇所で暮らすライフスタイルについては「デュアルライフ」やら「ノマドスタイル」やらと名付けられ、既にいろいろな人が本を出したり実践したりしているが、自分がするとなるとこれはまったく別のハナシだった。取説やテキストはない。自分の「想像」の具現を一から始めるのみ。この暮らしを始めて半年経ったが、正直未だに全体像がつかめずにいる。しかしそれは自分が面白がっている証拠でもある。

安易に予測がつくようなことはタカが知れており、すぐに見切れて飽きてしまう。今までしたこともない未知の出来事に身を投じることこそが生きる楽しみであり、それを乗り越えることで人は成長すると僕は考える。凪ぎには何も動かない。流れぬ水は腐る。

とにもかくにも第一義は“踏み出すこと”。「変化を望むならば自分がその最初の変化になれ」と説いたガンジーの言葉も自分なりに踏襲できただろうか。今年後半あたりにはまた雑感を整理して改めてこの暮らしについて語り直してみたいと考えている。

明日4日は二十四節気でいう立春。
いつもながら時間経過の体感速度は本当に速いのだけれど、新体験の連続のせいか旧年は決して短くない一年だった。今年も来年初に同様な感想を書けるような一年にしたい。


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2012.10.31

知らない誰かがしてくれるたくさんのこと


*


自分自身のことの大半は自分でしか解決できないものだ。
相談に来た友人にアドバイスしたところで、それを実行
するしないは本人次第。それ以上のことは他者にはどう
することもできないのである。

が一方で、いくら独りでやろうと思っても自力だけでは
解決できないことがあるのも確かだ。特にこんな世の中
では、つい大かたの事は自分一人で成して生きているの
だというような錯覚に陥りがちだが、本当は気がつかな
いところで知らない誰かが動いてくれていて、そのおか
げで日々の暮らしが成立している。


その「知らない誰かがしてくれたたくさんのこと」は
よく知らなくても暮らしてはいける。が、できるだけ
知った方がよいと昨年あたりから思うようになった。
人知れず黙々と続けて来てくれた行動には届く距離から
敬意を評したいし、そこに人手が足りないならば可能な
限り力を合流させたいとも思うからである。

かのボブ・マーレーが「俺から受け取ったそのバトンを
次はキミが誰かに渡せ」と歌ったように、してもらった
善行を次は自分が誰かにすべき、ということは誰しも疑
わないところだろう。


しかし「知らない誰かがしてくれたたくさんこと」の中
には、こちらが望まないマコトにありがたくないことも
含まれている。それは僕が眠っている時もご飯を食べて
いる時も映画を観ている時も仕事をしている時も、サボ
ることなく粛々と進めてくれていた。そしてある日突然
訪ねて来て、「これ、今日までの明細です。お支払いを
よろしく」と有無も言わせず請求書を手渡して来る。

それは一見みんなのためのように見えたのだが、実は
ごく少数の者たちに利益を集める類いのものだった。
「誰だキミは?こんなもの知らんぞ!」といっても
時すでに遅し。その誰かは

「今さらそれはないでしょう。
 今日まで恩恵を享受して来ましたよね?」

と恫喝して来る。

「何の事だ。享受なんて身に覚えはない。
 断固支払わないからな」

「残念ながらすでに法律で決まっていましてね。
 お支払い頂かないわけにはいかんのです」

「いつそんな法律が決まった?聞いてないぞ」

「もう随分前ですよ。あなたがお子さんの時分ですかね」

「それじゃ反対のしようがないじゃないか」

「反意を表す機会はその後もたくさんありました。
 何人かは抗議して来ましたし。あなたが知らないだけです」

そしてこう付け加えた。

「今日まで何も言って来なかったじゃないですか。この
社会で黙っていることは同意したのと同じなんですよ」
 

言葉を失う僕に、今後もお支払い願います〜と言い
残し半笑いで去って行った。「時の経過」はすでに
彼らの良い方に作用していた。


*


今は亡きジョー・ストラマーがライブの最中にオーディエンス
に向かって言った「タバコも酒もドラッグも止めて、その金を
貯めろ。そしてこんな所に来ないで投票に行け」という言葉を
思い出した。当時は詭弁にも聴こえたが、彼には確信があって
そう言っていたのだと、今になってみて思う。


「知らない誰かがしてくれるたくさんのこと」
それがどこの誰でいったいどんなことなのか、
知る努力が必要だ。

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2012.08.28

肉筆のススメ


*

定期的にイラストを提供している某月刊誌出版社の名物社長が
対談記事の最後に肉筆で書いた一語を載せていたのを見た。
率直に「わ、ヘタクソ !! 」と思ってしまった。
論客&武闘派編集者として名を馳せている御仁だが、
書く文字はなんというかもう中学生並み。
いや、小学生…(失礼)

ゲスト相手にスルドく持論を熱弁していた氏だったが、
60代の大先輩に申し上げるのも僭越ながらシメでドン引き。
もちろん達筆でなくても「味のある字」というのもあるのだが、
あれはちょっとその枠にも入れてあげられないレベルだった。
企画としては完全に逆効果、そこで別のオチがついた感アリ。


会社員時代に「このトシで書く字がひどいと人格を
疑われるんだよな…」と盛んに嘆く上司がいたことを思い出した。まぁ人格とまではいわないまでも、なんというのか、
この人って本質は幼稚で浅いんじゃないの???
という猜疑心が自然と頭をもたげて来てしまうのですね。
その人を「尊敬」でもしていた日にはもう、その二文字が
顔写真とともにガラガラと音を立てて崩れて落ちてしまう。

なでしこジャパンの監督がインタビューで、日々気をつけている
ことに「朝キチンと鼻毛を切る」といっていたが、まさにそこ。
大勢の人間を引っ張る社会的地位の高い人間がそんな字を書く
というのは、ヘタをすると統率力にも拘って来る。
人の上に立つ人間は特に自分の素が見える部分には
細心の注意を払うべきだろう。

絵の場合、ウマいヘタは「才能の有無」で大目に見て
もらえるが文字はそうもいかない。老若男女がそれなりに
書けるものであり、いわば無差別級試合。
絵のようなテクニックとの拘わりも低い。
何よりその人の本質が如実に出て、即座にどんな「人」
かが判別できてしまう。日常の印象が一気に地に落ちる
ことだってあり得る。書く文字には結構なイメージへの
破壊力があるのだ。
上司が言いたかったのはそういうことだろうと思う。


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しかし彼だけではない。
最近の日本人は総じて字がヘタクソではなかろうか。
著名人や有識者がTV番組でポンと出したボードの
文字にでさえ、あんぐりとクチが開いてしまうときがある。
ヘタというよりももう幼児の絵のような体だったりする。

逆に、TVの鑑定番組を見ているとしばしば目にする昔の作家や
政治家らが知人に宛てた書簡なんかは、ほとんどが上手い。
しかも20〜30代の時に書かれたものだったりする。
たかだか百年くらいの経年で、この落差は何なんだと思う。

実は、文字は「書く」というより「描く」なのだ。
こちらが膨らんだらこちらはへこませるといったバランスを
見る力や、この太さは最後の延ばす部分に関わって来る、
というような大局的なものの見方が要求される。
要は「デザイン力」であり「観察力」であり
「全体を包括する力」なのだ。
と、ハードルをあげておいてなんだが、実はそれほど
難しいものでもなんでもなく、通常の生活センスがあれば
書けるはず。そこに学歴や学力の高低はほとんど関与しない。
小学校しか出ていないというようなオバアちゃんが
スゴく達筆だったりするのだから。


*

先日、A新聞社発刊の育児雑誌にイラストを寄稿した。
テーマは子どものノートのとり方について。
「書きとり」という語にとても懐かしさを覚えながら
本当に今のオトナは手で書くことを捨ててしまったと感じた。
今やスーパーの売り場POPでさえ打文字出力の時代。
年賀状なんかすべてPC印刷。まるでDMだ。
このハガキのどこに送り手の心情が表されているのか
サッパリ判らず何枚もらってもまったく心が動かない。
子どもの頃はあんなに熱心に手を動かしていたというのに
いったいみんなどうしてしまったのだろう???


職業柄、筆記具を握る頻度は標準的な同年代より高いと思う。
絵だけでなくロゴや描き文字も手で描くし、予定や覚え書き、
アイデアもなるべく紙に書くようにしている。
しかし斯くいう僕も、文章を書くときだけはやはり
PCのキーを叩いている。もちろんこのブログもそう。
各種申し込みの類いも今やすべてキー入力だ。
しかし、様々な手続きが簡略化されて行くのがIT社会の
流れであっても書く行為だけはそこに乗っかり過ぎては
いけないと、昨今は痛感する。


昔の作家や政治家は特別字が上手かったということではなく、
肉筆が当たり前だった社会の中である年齢まで生きれば
「達筆」は必然だったのではないだろうか。極端にいうなら
文盲の人以外は一定レベルのうまさで書けたのではないか
と思う。少なくとも現代人から見れば
全員自分よりも達筆だと思えるくらいは。

有史以来、ヒトがえんぴつや筆を紙の上に載せて走らせる行為を
永年続けて来たからには、脳と身体の間に何らかの相関関係が
生まれてしまっているはずだ。それを全て鍵盤叩きに代用させ、
ここで急に止めてしまうことをどうも善く思えない。
臨床学的なこともそうだが、何より恥ずかしいではないか
何十年も生きておいて満足に文字も書けないなんて。

内容の伝達以外にも、強い表現使命が肉筆文字にはある。
なのに、あまりに僕らはそれをないがしろにし過ぎていないか。
書かなくなればどんどんヘタクソになってゆく。
肉筆文字もそういう性格のものだろう。
広告の裏でも何でもいい。子どもの頃のように貪欲に
文字を書くことを、いま一度再開しようじゃないか
ココロあたりのあるご同輩。


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2012.02.27

冬の咳ばらい


*

雪の降る街を
雪の降る街を


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思い出だけが通り過ぎてゆく
雪の降る街を


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遠い国から落ちて来る
この想い出をこの想い出を

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いつの日かつつまん
温かき幸せのほほえみ


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極寒キッチンで食事の支度をしていたら
ラジオから手嶌葵の歌う『雪の降る街を』が流れて来た。

にしてもなんて寒さが匂って来る歌なんだろう。
重たいイントロから後半メジャーに転調はするものの
徹頭徹尾くらーい曲。刹那に鬱になりそうだ。


この曲が書かれた当時は
今よりももっと冬が寒かっただろうし
街も道路もうす暗かったのだろう。
だからこんなトーンの歌が生まれた。
そういう事情もこの曲からは何となく伺い知れる。
歌とは少なからず人のココロをえぐるべきだ。

今はこんな曲を書ける人はいない。
こんな曲を書かされてしまうような場所は都市にはないから
心象風景を歌詞に反射させて匂いや温度まで感じさせて
くれるようなマチエールの深い「歌」は生まれない。


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低温ならば当時の環境にも負けないほどの寒さの
我がハウスだが、雪が降るとこんな表情を見せる。
「寒い家はイヤ」の意見には異論はないけれど
雰囲気も情緒もない家はもっとイヤ。


今のプロダクトは家に限らずどれも
利便性やコストのことばかりで
人の感情に訴求するものを持っていない。

組み立て家具や100円雑貨やファストファッションは
確かに用途によってはそれで賄えるものもあろう。
が、囲まれて暮らすようなものじゃない。
「安かった」とニコニコしていれば
その人もそれなりの「程度」になってゆく。
そういうことも知っておいた方がいい。


昨日、春まであと少しですと天気予報。
冬の長逗留にヘキエキするような毎日だが
ここで迎える3回目の冬、この寒さにはもうすっかり慣れた。

昔は大嫌いだった冬が、最近は行ってしまうことにも
ちょっとだけ寂しさを憶えるようになったのは
平屋に住むようになったことと無縁ではないような気がしている。


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2012.02.14

Birthday来たりなば 春遠からじ


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みなさん、いろいろお言葉やら贈り物やらを
本当にありがとうございます。
毎年こうやって自分の番になると日頃みなさんには
何もしていない自らの怠慢具合を恥ずかしく思う次第です。

去年は、気がつけば壁を一点見つめしてしまっていたような
あるいはオンラインで電力屋一味を糾弾してばかりいたような
まあ非生産的な事柄に足を絡めとられた惨憺たる一年でしたが、
今年の節分あたりから不思議とヤル気に満ち始めています。

とはいえ昨年のブログでも言い及んだように戦いはやめません。
この国に住むからには、間違えた事をする資本家らを無闇に恐れ
真実を言い淀んだり、見て見ぬフリをし続けることは
金輪際もうやめようと決めたからです。

その上で、失速してしまった自らのミッションの遂行を
元のスピードに戻すことに尽力する一年にと思っています。
アティテュードはあくまでクールに、行動は熱く、です。
憶えていたら程度で結構ですので軽ーくご期待ください。

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Dsc03201_3


今度イラストを描くことになった
自費出版本『World Youth Products』の
若き編集者たちからのプレゼント。

日曜日の打ち合わせ時に頂いたが
手を付けることなく帰ってしまったので
写真だけでも。ありがとう!


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