音楽

2017.05.17

ジョーによろしく

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大学時代、学祭にデビュー前のブルーハーツを呼んだとき彼が観に来てくれていた。前座のような形で演った僕らの演奏も観ていたようで、ステージ後スゴく良かったと真剣な顔つきで話しかけて来てくれた。笑うとちょっとヒロトに似ているその男はイワタと名乗った。こちらは洋服の並木であつらえたエンジの玉虫スーツにLOAKのタッセルのルードボーイスタイル、イワタはキャスケットにレザージャケットを羽織りクリーパーシューズといったUKロッカーズスタイルだった。

「よかったら聴いて」とカセットテープを手渡された。スリーブにメンバーの紙焼き写真が入っていて「The STRUMMERS」と書いてあった。ザ・クラッシュのボーカリストの名前をそのままバンド名に据えるとは、随分とまあ大胆な名前をつけたもんだなと内心思ったが、本人がジツに爽やかな人柄でそれはむしろ純粋さと潔さの表れなんだろうと解釈した。

ギグ(ライブではなく)にも誘われ観演しに行ったこともあった。確か渋谷Lamamaだ。こちらは60Sモッドバンドやパブロックのカバーバンドだったのに対して彼らはすでにオリジナルを演っていた。当時の曲は初期パンクというより何か劇曲のように感じた。クラッシュを期待して行ったため正直あまりピンと来なかったが、今思えばあれこそが彼のオリジナリティ・独自性だったのだ。

その後よく連絡を取り合うようになり、三軒茶屋の彼の下宿によくスクーターで遊びに行った。そこで何時間も音楽やロックトライブ、それに関するファッションの話をした。彼のガールフレンドの話なんかもよく聴かされたっけ。

僕が就職してからは疎遠になってしまい、ライブはやっているようだくらいの認識しかなくなってしまっていたある日、TV番組のエンディングに彼らの曲が使われていたのを見て、お!デビューしたか!とちょっと嬉しくなった事を覚えている。以降、情報は得ていない。

 

ジツはつい先日荷物の整理をしてたらその時のカセットテープが出て来て、しばらく写真を眺めて懐かしんでいたところだった。メジャーデビューした後どこかで一度だけ会っていたかもしれないが、記憶が曖昧だ。奇遇にも「そうだ、イワタは元気でやっているのかな」と思っていた数日後の訃報。つくづく思い立ったらすぐ人には会っておくべきだと痛感した。岩田美夫のような男とはもう二度と出会えないだろう。

こんなふうに突如鬼籍入りしてしまった友人知人がここ3〜4年で何人もいる。今回も腑に落ちない気持ちでいっぱいだが、ヤツのことだからきっとジョーに屈託なく話しかけ楽しく話をしているんだろうなァと考えることにして、送りたい。


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2016.07.06

友、遠方より来たれり/chocolat&akitoとMattson2

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九州にいると、東京ではいつでも会えるからとどんどん疎遠になってしまっていたような友人・親類と逆に会えたりする。先日も東京から旧友であるミュージシャンの《chocolat&akito》の片寄夫妻が遊びに来てくれた。新譜『CHOCOLA&AKITO MEETS THE MATTSON 2』でコラボレーションしたカリフォルニアのサーフ・インスト・デュオ《Mattoson2》のマトソン兄弟(一卵性双生児!)とのプロモーションツアーで来福の折に4人で寄ってくれたという運び。

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片寄明人くんと知り合ったのは80年代の真ん中。僕がまだバンドをやっていた頃、ライブハウス『新宿JAM』の月イチイベント《March Of The Mods》に出演した夜に対バンだったコレクターズの前身であるThe Bikeを観に来た彼が、当時よくカバーしていたElvis Costelloの話をしに楽屋へやって来たのが最初だったと思う。

ひょろっとした長身に栗色のスパイキーヘア、ジャストコンシャスでこざっぱりした三つボタンスーツに黄色っぽいセルフレイムの眼鏡を合わせ、ニカッと笑った笑顔が印象的な童顔の少年だった。「僕もCostello大好きなんですよ!」といって彼はその後もちょくちょくライブに足を運んでくれ、その都度楽屋に来てはコレクションのレア盤(大抵7インチ)なんぞを持参。こちらが「スゴいなあ〜」「持ってないなあ〜」と悔しそうにすると屈託なく破顔一笑していたのを覚えている。彼はまだ十代だったはず。

数年後、仕事でいた岡山から帰省した際に行った下北沢のバーでばったり会った。メッシュキャップに革ジャンを羽織り足下はエンジニアブーツ、レザーのウォレットがデニムのヒップポケットからはみ出していた。随分印象が変わっていたがあの「ニカッ」は相変わらず。今にして思えばそのとき「僕、バンドを始めたんですよ」と笑顔で話してくれたのが、今日まで続く彼のキャリアを指し示す第一声だったということになる。

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その後、メキメキと頭角を現し80年代後半には《Rotten Hats》を結成。よく僕の企画のライブにも出てくれたが、もうやっていることのレベルが段違い、メンバーもよくここまで手練を集めたなあと感心する面々だった(全員現在もミュージシャンとして活躍していることからも判る)。ほどなくしてメジャーレーベルにスッと連れて行かれてしまった。屈託のない我郎だったはずが、見る見るうちに成長しすーっと追い抜かれてしまったという感だったが、今もキチンと音楽活動を続けている姿を見ればそれも当然だったのだと再認識できる。やはり天賦の才があったというか、情熱の量が違ったのだなあと。

昼過ぎに、奥さまでありユニットのパートナーであるショコラちゃん、そしてマトソン兄弟と共に我が家に到着。先ずは5人で自転車でポタリングし町内を案内。地元の小さなスーパーでは大きくて安価な九州野菜に目を見張り、鮮魚売り場ではめずらしい尾頭付きを持ってはしゃいでみたりと、予想以上に楽しんでいた。特にM兄弟は他の地でも行くことのなかった地方のローカルマーケットが予想だにせず面白かったと見え「Wow〜!」「Cool!」「Amazing!」と終始オドロキ笑顔。「そんなに??」と訊くと「Sure!」と返って来た。


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次は僕が関わるゲストハウスで一服し、すぐ裏の浜辺に出てフォトセッション。その後6人乗りユーロバンに乗っけての島へドライブ、高台から海が臨める神社に行くとマトソン兄弟は「Beautiful!」を連発。カリフォルニアの美しい海辺から来た彼らにも博多の海や森が荘厳に映った様子、なぜかこちらも自分が褒められたような気分になり嬉しくなった。


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本来ならリーズナブルで美味しい知人の食堂でシメるコースなのだが、当夜がライブだったため天神に出やすい駅まで送り、晩に再会して観演させてもらうということに。タウン誌『シティ情報Fukuoka』のエンタメ担当者Sさんと入場、会場は小ぶりながら二階席もある劇場スタイルの造りで、グッドサイズの私感。鑑賞する側にとっては演者の息づかいも聴こえるようなこのくらいがベスト。ステージに上がる前M兄弟にエントランスでバッタリ、僕を見つけるなり「ツアーコンダクター!」と握手を求めて来た(笑)すでに後ろまで埋まっていたが、ステージ横のモニターまで進み出ることに。

新譜を聴いていて、一体どんなふうにステージで演るのだろうと心配したが、それも及ばずとても上手く再現していた。そりゃあプロだからねと思い直すが、それでもあの手の曲をこの誤摩化しの効かないキャパでじっくり観せるのは結構大変なはずと改めて感心。ここ何年かの間、ライブを観ていると20分を待たずに飽きてしまう悪い癖も、いろいろなタイプの曲で構成する彼らのステージでは発症しなかった。それに加え夫婦漫才張りのMCが本気で面白い。これは実際に観てみないと判らないので文字に起こしません(笑)

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また、Mattoson2が自らのナンバーを二人で演奏するという間もあり、個人的に以前からファンだった僕にとってはまた楽しめる時間だった。演奏中もステージ端にいたこちらにたびたびアイコンタクト、日中のアテンドが相当ウケた様子(笑)

伴侶と共に表現者として全国を巡り各地で温かく迎えられ、その地その地の景色や食べ物を愉しめるなんていう職業はそう多くはない。若気の至りで好きになったポップミュージックを生涯の生業にするなんて、年齢が高くなってゆくにつれ肉体的にも精神的にも辛くなるものだろうと思っていたけれど、彼らを見る限り必ずしもそうとは言えないとしみじみ感じた。苦労も多々あろうが総合的に見ればやはり羨ましい職業である。

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それにしても、あの時楽屋にレコードを持って来た少年が海外ミュージシャンにファンがいるような音楽家になり、九州に移り住んだ僕の家へツアーついでに遊びにやって来る日が来るなんていったいあの日の誰が想像しただろうか。縁は異なものというが、未来もまた異な縁を連れて来るものだ。彼が歌っている姿を間近で観て、そんなことが頭を巡ったエスペシャリティな夜であった。

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(ライブ写真提供 / 根石桜)


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2015.09.24

ゆったりとしてる

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昨夜は中洲川端の《Gates'7》まで『ましまろ』を観に。

 

彼らの来福に気がついた時はすでに1週間を切っていた。さすがにチケットはもうなかろうと思いダメ元でメンバーの真城めぐみにメールしてみると、前夜になって1枚確保という返答があり急遽駆けつけることに。

 

ギリギリまで仕事をしていたらイキナリ豪雨、クルマ&自転車アクセスを電車に変更。そのため到着は開演5分オーバー。それでもその程度の誤差で都心部まで着けちゃうのだから博多というところはスゴいと痛感。

 

テーブル席メインの会場だがすでに“立ち見”とのこと。東京の会場のようにドアまでギッチリのスシ詰め状態を想像するも(以前オリジナル・ラヴの田島氏から招待をもらい、渋谷のライブ会場に着いてドアを開けたらもう一枚分厚い“人間のドア”が立っていたため断念した経験アリ)そんなことこともなくドリンクカウンターまですんなり行き着けた。人々にも適度な隙間があり、立っていても居やすい。思えば80年代半ば辺りまでは東京の会場にもこんなゆったり感があった。だがバブルをまたいで詰め込むだけ詰め込むスタイルに変わった。こんなところにも福岡の住みやすさを感じてしまう。

 

直後、ぽつんと空いていたソファー席を見つけあっさり座れてしまった。こんなカンファタブルな環境でマーシーの肉声を聴くのは初だろう。ふと、アコギを抱える彼を見るのはおそらく86年の今はなき渋谷屋根裏でのホリー・バーバリアン(注1)以来ではなかろうかと回想。あれから幾年月…(遠い眼)

 

 

 

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じつはここ10年ほどライブはちょっと敬遠している。20〜30代でもう一生分のライブを観てしまったのかなんなのか自己分析に至らないが、毎度2〜3曲でお腹いっぱいになってしまうのだ(いつもお誘いくださっているみなさんゴメンナサイ)。それよりも誰かと話をしたり、帰って自分のことをしたくなったりしてしまう。よって今回は異例中の異例。

 

 

なのに昨夜は入場して彼らの演奏が耳に入るやいなや、イキナリ切なくなって来ちゃって軽〜く涙腺が緩み出す始末。曲が続くに連れてさまざまな思い出が去来し、ラスト2曲前の『ガランとしてる』ではステージの壁を“一点見つめ”の状態に。思えば90年前後、彼の歌声を聴かない日はなかったからなあ。

 

どんなライブにも必ず来る「中だるみ」にはお酒のオーダータイムと称してセットリストにないインストを演奏し始めて休んでみたり、メンバーが他メンバーの作った曲を軽くディスるなどMCも面白く、気がつけばアンコールまで聴き入っていた。ああ、すべてにおいてお腹いっぱいになっちゃうワケではないんだなと胸を撫で下ろす。やはり異例中の異例。

 

 

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終演後メンバーとホテルのロビーで再会、久々の会話を交わす。…この人ら年を取らんなあ。中森氏が長崎出身だったこと、飯塚に住んでいたことなんかが始めて判りびっくり。我が家の界隈もその昔よくドライブで通ったという。

 

彼らはご存知の通りザ・クロマニヨンズとヒックス・ヴィルの混合バンド。80年代には同じ東京モッズシーンにいた“金石の交り”。そんな朋友が30年後に一緒に全国を廻ってるって、いいなァ。先日甲本邸に夕食に呼ばれた際、ロックミュージシャンは年を取ったとき肉体よりもマインドを保つことの方が大変そうだという話をして来たばかりだったが、こんなこともできるんだからやっぱり羨ましい職業だ…とガランとした地下鉄の中で考えたりしていた。

 

(それにしても真城とマーシーの掛け合いがあんなに“かみ合う”とは思わなんだ 笑)

 

 

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(注1)
ブルーハーツのメジャーデビュー前、マーシーがアンプラグドでのソロ活動をする際の個人名義。デビュー後のソロでは本名の真島昌利に戻したため、事実上ホリー・バーバリアン(聖なる野蛮人)は自然消滅した。

 

 

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2010.08.06

明日山中湖方面に行く方々へ…

もし明日、山中湖方面へドライブでもしようと考えている人が
いるならば悪いことは言いません、日取りをずらした方が良いでしょう。
何せ大きな野外イベントがありますから。
スゴいことになりますよーうっかり近づくと。
TOKYO S.K.APARADISE ORCHESTRA=スカパラの
主催する『TOKYO S.K.A JUMBOREE』がそれ。

世界各国の、とまでは言わないまでもこんな国からも!?
というような国からのS.K.Aバンドが参加。同ジャンルの
ミュージシャンたちがS.K.Aの名の下に富士の裾野で大集結。
個人的には興味の薄い「夏の野外音楽フェス」だけれど
このジャンルのバンドばかりが集まるのはちょっと面白そう。
ジャマイカで生まれ英国で育まれたS.K.Aは、他のクラブ系
ダンスミュージックとは違いポリティカルで主張に骨がある
レベル・ミュージック、R&Rのスピリットに近い。
したがって、聴いていてジツに気分がいいのです。
なのに一昨年オリジナルメンバーで来日したマッドネスは
行きそびれて悔しい思いをしたワタクシ。
今春久々に彼らの両国国技館でのライブTシャツを手がけ、
引き続き夏のこのイベントもご依頼を頂戴をしました。
Tシャツのほかバスタオル、会場のマップなどもあげたので
明日ご参加予定の方はゼヒチェックしてみてください~
■Tシャツ 
T_a2_2 
■i-phone case
Iphone_d1_3 
■jumboタオル
Towel_1_3
 
Map_eventspace

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2007.07.06

僕とストライクスの季節

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今から遡る事20余年前、僕には2つのアイドルバンドがいた。
しかも運よくごく身近に。


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ひとつはザ・ブルーハーツ。そしてもうひとつがザ・ストライクスだ。両者とも親交が篤かったが、前者が優しい兄たちのような存在だったのに比べるとストライクスは仲のいい同級生、いや近所の悪ガキ仲間といった関係だった。偶然にもメンバーの年齢構成が当時の我がバンドとウリふたつで、全員東京出身の江戸っ子バンドというところも一致。そのせいもあってか意気投合、ホントによく一緒にライブをやった。
メンバーの大半が四谷っ子で、育ちが良さそうなのに不良のニオイがした。ガール・グループスのカバーで人気を博していたペイズリー・ブルーのメンバーに「アラタ君は絶対好きなはず。カッコイイから必ず観て!」と勧められたのが85年の晩秋。そういう進言には比較的素直に従う僕は迷うことなく海馬にその名を入力した(だって名前がイカしてるじゃないか!)


東京新宿にあるライブハウス『STUDIO JAM』で現在も続く『March Of The Mods』は当時月イチで開催されており、僕は毎回ドレスアップしデコレイトしたスクーターで出かけていた。当時は昨今のようにカバーだけをやるバンドや英詞に特化したバンドはごく僅かで、日本語によるオリジナル曲を演奏することが現在のシーンより強く求められていた時代だった。しかも東京のモッズシーンは当時徐々に細分化され始めた他ジャンルのR&Rシーンより、個々の持つ世界観やフィロソフィーを重視するカラーを早い段階から持っていた。そのうえ曲自体の良さはもちろん、ダンサブルか・スタイリッシュか否かなど演者の日常のアティテュードに至るまでオーディエンスの要求がジツに厳しい現場だった。

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そんなJAMのステージにある晩4つの影が現れた。全員黒のタートルにホワイトデニム、長めのクルーカット。フロント3人は粒が揃っていてステージのシルエットがいい。バンドには大切なファクターだ。足元をチェルシーブーツで固めビンテージのグレッチをハイポジションに構えて1.2.3.4の掛け声と共に『コマンシェ』や『シミー・シェイク』をマージーライクに演った。彼らこそ噂のザ・ストライクス~ 飛びぬけてうまかった!そしてカッコ良かった!ルックスにそぐわない荒々しいステージアクト!そう、キャバーン時代のビートルズ!誰もがそう連想したに違いない。歌詞が日本語になった頃にはホールのあちこちで黄色い嬌声が上がり、空気を完全に入れ替えてしまった。

キレのあるライブアクトやルックスにも魅了されたが、あの有名な六本木某クラブでやっているビートルズコスプレショーのそれとは違い、カバーより日本語で歌うオリジナル曲にこそ魅力があった。僕はそこに驚いた。そして総じて何か「本当のバンド」が登場した、という印象を強く持った。

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とんがったレジスタントな詞を好むモッズの前で自作のラブソングを演奏し認めさせたというのも快挙だったが、モッドの中には彼らを当時既に解散していた伝説のマージービートバンド/ザ・ブレイカーズに重ねて見ていた向きもあったかも知れない(僕はザ・ターキーズを連想)。がしかし、僕が何よりも注目していたのは、彼らのバンド・コンセプションの高さあった。先ず、全員必ず揃いの衣装でステージに立つという不文律が遵守されていたこと。これにはバンドセットのあるべき姿を改めて再認識した思いだった。オフ・ステージでもバンドロゴと担当パートが背中に刺繍されたドリズラージャケットを全員が羽織り、サウンドに則したレトロ・アンタームドな空気を忠実に醸すことに徹していた。またスーツオンリーに陥りがちなシーンの中で、件のタートルニットや黒のベストに細めのニットタイを合わせたりと60S愛好家たちの琴線に細かく触れるような姿勢はとても新鮮に映った。

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そして何より驚いたのは(初期の彼らを知っている方ならご存知のように)アマチュアのくせにマネージャーまでいたということ!ステージがはねると必ず楽屋では5人による反省会が催され、忌憚なくゲキを飛ばし合っていた。当時はまだ高価だったハンディカムなんぞを導入し、それを見ながら細部にうがってのパーフォーマンスの研鑽会。まだ学生気分で行き当たりばったりのライブをしていた僕にとってそれは衝撃の光景で、彼らの達観度には大きな刺激を受けたものだった。

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彼らはライブというものはただ演奏を聴かせるだけではなく、「観せる」ということ、しいては「空気感」を提供する場であるということ、そしてオーディエンスはその空気を吸いにやってくるのだということを早い段階からごく自然に自覚していたのだろう(当時プロにだってそんなバンドはいなかったのではなかったか!)それゆえアイデンティティが先ず骨子に毅然とあり、その上にビジュアルやサウンドが血肉となって「バンド」が図面に沿い忠実に構築されていたのである。そしてそれがジツに上手いのがストライクスだった。今にして思えばあのダっサイ80年代初頭にハタチそこそこのガキ共がそんなことをやってのけていたワケだからその早熟度加減には驚くばかりだ。彼らのこの方法論はその後徐々に芽吹き、今日に隆盛するジャパニーズ・ガレージシーンに多大な影響を与え、ひとつのマスターピースとなるのである。

最初のステージングを見て以来とにかく僕はすっかりノックアウトされてしまい、都内のライブハウスをトレースして廻った。どういうきっかけだったかは失念したが、楽屋に入ってはお互い好きな音楽や映画の話をするまでの仲になり、共演も果たすようになった。そしてクワトロやクラブ・チッタでの彼らのワンマンライブの際、ゲストシンガーとして幾度となくステージに招いてもらったりした。
出会ってからの10年間は彼らと共にあったと言って過言ではない。秋風が吹く頃には今でも『Peanuts』が僕のクルマの中に流れるのはその証。そんな彼らに今回このような形でまた関われるのはこの上ない大きな幸せである。


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『A Shot Of THE STRIKES /the complete works of the early STRIKES』(Mint Sound)
現在アナログでしか入手できなかった(しかも高価!)彼らの初期音源がミント・サウンドからこのたび再リリースされる。ナント2枚組み55曲入りのボリューム。もちろん未発表曲もたっぷり入ってしかも初回はDVD付き(これがスバラシイ!)。当時を知っている方はもちろん、未体験の方も彼らの魅力と熱いバイブレーションを堪能できる文字に偽りナシのお買い得盤です~ やっぱり改めてカッコイイわ、やつら。

THE STRIKES official website
【STRIKERS WALK】
http://www.the-strikes.com/

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2007.03.28

ひとりフィッシュマンズ

「今年は飛散量少なめ」と予測されたスギ花粉ですが、
予報を鵜呑みにした僕がバカでした・・・。

今月初に吹いた春一番(二番?)に、先月末から予め飲み続けていた抗アレルギー剤(一番ユルい種)のバリアは静かに破られ流感でもここまでは~というくらいのノドの痛み・咳・くしゃみ・鼻水・微熱の症状が実に満遍なく、そして一気にやって来ました。おかげでペースも徐々に乱れ溜まってゆく仕事・・・。早寝~早起きに切り替え何とかペースを取り戻したものの、強いアレルギー薬特有の睡魔との闘いに一苦労。この時期は本当に四苦八苦させられますが、自宅仕事のフリーランスは時間を調子に合わせてフレキシブルに使えるのでお勤めの方々よりはまだいいかも知れませんな。


そんな中、スカパラメンバー&ひとり フィッシュマンズとして活動する直感のドラマー
茂木欣一氏のセレクトCD『Justa Radio Compilation』のブックレット仕事が無事入稿~今月末店頭に並びます。


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今回はエディターのS氏が僕のイラストの入ったPコートを着て打ち合わせに登場した所をスカパラマネージャー2号氏が声をかけオファー頂いたという何ともフシギなイキサツ。先だってのスカパラ・ノベルティからご本人も乗り気とのことで、頭の回転の早い優秀スタッフにしっかりサポート頂き非常にやりやすく且つ楽しくできた仕事でした~

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当CDは彼のラジオ番組から飛び出した企画初号盤。今編はドライブにどうぞ!と茂木氏がセレクトしたいわば「クルージング編」 19曲のパッケージのためクルマのイラストをたくさん配しました。

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僕の好きな曲も結構被っており、イラストのキャラがぶちまけちゃってるレコードジャケットは知っている人が見れば「あれか!」とご理解いただけるのでは~(特に抱いてる一枚は大好き!)ミュージシャンの間からも評価の高い茂木欣一氏の選曲アルバムですが、ブックレットやディスク、トレーに至る隅々にまでイラストが配されておりワタクシクールハンドも満載された一枚に仕上がっております~

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2005.08.18

THE 5.6.7.8'S ジャケットUP!

Q・タランティーノ監督も自作映画『KILL BILL』に出演させたほどの大ファン、
Mighty Girls Trash Band/ The 5.6.7.8'Sのアメリカ盤ベストアルバム
『VERY BEST OF The 5.6.7.8'S』のCDジャケットが上がりました~
(休日返上でオペレーティングしてくれたシャイニー大杉くん、お疲れさまでした~!
感謝×100!!)

今でこそ活況を呈すジャパニーズ・ガレージ・シーンですが、彼女達は約20年も前から孤軍奮闘してきた言わばパイオニア(まさに時代がやっと彼女らに追いついた、というカンジ!)。80年代から時代を先取りしていた音&スタイルで疾走して来た孤高なる彼女らをCD一枚で網羅しきれるものではモチロンないけれど、結成から今日までの軌跡がこの1枚でかなりワカル!というくらい濃い内容(&お買い得)に仕上がっています。

オファー頂いた際、以前結婚パーティの件で触れたVoのロニー・ヨシコちゃんとブルーノート時代のウォーホールやデヴィッド・ストーンマーチンで行こうと打ち合わせ、今回も打ち文字類は一切使わず、手描きのみで仕上げました。

リリースはあの大阪/タイム・ボム・レコーズ。9月後半より廻るU.Sツアーから販売開始とのことですが、日本でもおそらく輸入盤ショップに並ぶこととなりますので彼女らを未体験の方はゼヒ!日本にもこんなカッコイイ女性達が居たのかとぶっ飛びますぞ!

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2005.06.19

ギターを抱いたカッコイイ花嫁

去る5月22日福生16号沿いの『座伍玉』で行われた「ミタカくん」ことワタナベイチローくんと泣く子も踊るThe5.6.7.8sのG+Voフジイ'Ronnie'ヨシコちゃんのウエディング・パーティは最高でした!参列者もジャッキー&セドリックス、ギターウルフ、ブルービートレイヤーズのマーク、コメディエンヌの摩邪etc…新郎新婦のカオの広さとお人柄はゲストの錚々たる顔ぶれを見れば火を見るより明らか、しかしながらその彼らでさえも一員となってしまうくらいの個性派ぞろいの出席者たちにまた圧巻~(だってクセの無い人はゼロなんだから!)その彼らがそれぞれギターやマイクを手に代わる代わる歌って祝ったわけだからこんなにハッピーでヒップなパーティは先ず見られないし今後ニ度と無さそう。

終盤から会場はジミー益子氏とダディ.O.ノブ氏のツボを得た選曲に否応なくオールドスクール&パンキッシュなロックンロール・パーティと化し、お酒やケーキ、人までもが飛び交いました。あれでジョン・ベルーシがいればほぼアニマル・ハウスでしたね(笑)にしてもセドリックスのライブを見逃したのは無念~!) そして最後にギターを抱えた花嫁が歌った一曲には眼からウロコが落ちました(ホント、彼女の声はアーリー・ロネッツのロニー!)
あんなに参加者全員が楽しみ祝い、ココロ豊かにさせてくれたウエディングパーティは本当に初めて。
おふたり、おめでとう&ありがとう!! で、そのシアワセお裾分けを~!


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ロックン・ロールを愛するカップルにふさわしいギター型のウエディングケーキ。しかもVOXのティア・ドロップとはいかにも二人らしい!Happy Wedding & Stay Hip!!


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2004.11.12

そして、MODS MAYDAY '04!

そして今年の『MODS MAYDAY '04』。あれから20年の歳月が過ぎ去りました。今回一緒に行ったのはバンド仲間。彼らは僕より一まわりも年下なので、当時は小学生~幼稚園児だったわけです(笑)。

雨も降り出しそうだったこともあって川崎へはクルマで向かうことにしました。府中川崎街道と並走する多摩川沿道をハイ・ナンバーズの「ズート・スーツ」なんぞをフルボリュームでかけみんなで熱唱しながらひたすら南下。パーキングに入れる頃には小雨が振り出して来ていました。

ある程度は解っていたことでしたが到着後まずびっくりしたのが並ぶスクーターの完成度の高さ。84~5年当時はVespaGSはおろか、Lambrettaを見かけることさえ珍しかったのに、オリジナルと思しき旧型スクーターがまるでショールームのように並んでいました。

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ちょうどバブル期に欧州や東南アジアからヴィンテージスクーターが大量に日本に流入していたようでしたが(しかもめちゃくちゃな高価格で!)それから13~4年経った現在、更に細かい部分にまで追求が及んでいる印象。僕らだって絶版になりたてのスタジアムミラーを探しに上野のバイク街まで足を運んだり必死になってオリジナルパーツを買い求めたりしたものでしたが、やはりタマ数に限度がありました。

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いろいろな意味で妥協せざる得ない時代でしたが、今は情報も品数もケタ違い。ある程度は想像していたものの、ペイントやシート、計器類といった部品までの追求の深さが僕らの頃とは段違いなことに改めて感心してしまいました。そして一台として似通ったものがない。こういったディテイルの細部にまで神経をとがらせることこそモッズがモッズである所以、当然の進化?なのかも知れません。

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今となってはMODS=モッズも60年代のユースカルチャーとして随分認知されて来ましたが(もちろんまだまだですが)、当時はある程度音楽を聴いている人でさえ「あ、九州のバンドだね!」程度の認識。一般民衆に至っては「いったい何なの?」という反応がほとんど(特にビートルズやストーンズを聴いている人がこのムーブメントを全く知らない、ということにはシンプルに疑問を覚えたものです)。彼らからしてみれば小ざっぱりとしたスタイル、髪型には共感できても、シャープなコンビ・シューズやスクエアなサングラス、タイトなスーツやクレージーにデコレートされたスクーターは不可解と映ったことでしょう。

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僕の場合も家族の評判は芳しくありませんでした。が、年下の女の子たちには不思議とウケが良く、バイト先でもよくウエイトレスの女の子たちにシゲシゲと見られては細かく質問され、後日「モッズファッションの記事が載ってたよ~!」などと雑誌の切抜きをマメに持って来てくれたりしたものでした。理解者とは常に意外な所に居るものなのかも知れませんね(笑)。

当日の出演バンドはさしづめ同窓会のような顔ぶれでした。先述した新宿JAMを拠点として活動していた仲間たち、ザ・ヘア、ザ・コレクターズ、フェイヴ・レイヴス、そしてDJも新宿ツバキハウス時代から廻していたface稲葉達哉氏!僕らが小学生くらいの時からブルーアイド・ソウルやブリティッシュ・ビートに精通、数々のミュージシャンたちと深い親交を持つ兄貴分的存在の山名昇氏!そしてオーディエンスの中には早稲田ブリティッシュ・ビート研究会の旧友・深谷くん、常にハイ・ボルテージなダンスで一緒に盛り上がった成増のショウちゃん(当日は金髪に真っ白なセーラーのスタイル!)とケンちゃん(良く覚えていてくれました!)クールな山モッズのmabo!みんなみんなホントに懐かしい顔ぶれでした!

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それにしても会場に響く黒田学氏のテンションの高い進行にはあんなに元気な人だったっけ!?と驚くほど、心からこの集まりを盛り上げようとしている気持ちが浮き彫られていたし、殆どテクノと化していたザ・へアの音&パフォーマンスには常にポテンシャルを追求し続けるmodバンドの意気が見て取れ、ザ・コレクターズのステージには「ライブをやり続けるバンドはなんてカッコいいんだろう!!」と目からウロコ・・・転がり行く彼らのサマを目の当たりにし、この集まりがその昔消滅した音楽、風俗を懐かしむだけの回顧的イベントとは種類が違うのだということをしみじみ再認識させられました。

20年前では考えられなかったテッズやロッカーズの姿が見られたり(彼らも仲間だったりするのだが)、デニムにTシャツ姿のクラブ然としたスタイルの参加者がチラホラ居たりする会場風景は ややもすればMODSのアティテュードとは相反するような形骸化したお祭りになってしまったと映りかねないものの、クラシカルなスタイルを堅持しながらも「常に新しいことを取り入れる」MODSならではの先進性はキチンと踏襲されていたように思います。

最後にギグがはねた後、楽屋の廊下でばったり会ったザ・ヘアのあっちゃんと何もコトバを交わすこともなく静かにハグ、感慨深い再会の数秒間を過ごせたことが個人的に嬉しい出来事でした。来年も会おう、みんな。 STAY HIP!!


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2004.08.14

続・MODS MAYDAYレポートの前に・・・


その翌年のMODS MAYDAYは僕にとって忘れることの出来ない
最もエキサイティングな1日となりました。

ライブが始まる前の15時頃から渋谷公会堂前に三々五々
スクーターが集結、原宿から青山通り~溜池を経由して
銀座方面を流し人々の視線を浴びながら渋谷のライブハウス
へ戻る、というデモンストレーション・ランは本当に
気持ちの良いものでしたね。

僕はホワイトのヴェスパET3プリマベラ 125を
この日にあわせて入手しデコレートしていました。
原宿の交差点で友人2人とスクーターの調子を
見るため停車した際、テレビカメラと
レポーター風数人が駆け寄って来て
ねほりはほり訊かれたのを憶えています。

「暴走族ではないんですよね?」
「このバイクは?」
「どういう種類のファッションなの?」

などと質問されたので、暴走族ではないし、
これはバイクではないスクーターだ、
知らんだろうけど俺たちはMODSである、
と言うカンジにつっけんどんに答えてやりました。
マスコミなんぞには一切媚びない、
これぞMODのアティテュード!(笑)

会場に着くや、ランに参加できなかったメンツと
挨拶を交わし意気揚々エレベーターに飛び乗ると、
『ザ・コーツ』を解散させたばかりの
甲本ヒロト氏と鉢合わせ!僕はバンドも去ることながら
彼自身の大ファンだったので緊張しながらも話しかけ、
今日はどのくらいのMODSが集まっているとか、
彼のスクーターが盗まれたという会話を天にも
昇らんばかりの気持ちで交わしました。
そう、この時確か新しいバンドの青写真も
ちらっと聴かされましたっけ!
(もちろんザ・ブルーハーツ!)

会場に入ると新宿JAMでは見かけないMODたちが
たくさんいることにびっくり。今思うと男の方が
圧倒的に多く、MODS以外はほとんど見あたらないと
いうかなりコアなイベントでしたね
(というかこのイベントの場合はそれが当たり前なのですが)。

この時アルバイトで知り合った友人から、
今は亡き『新宿ツバキハウス』に集まるクラブ系MODSの
存在を聞かされました。彼らは何となく僕らより洗練された
観があり、スクーターも60年代のオールドにまたがっていたり
ファッションも東京では入手困難なレアものを身に
着けていたりと、よりディテイルに凝っていたような
印象がありました。


おりしもこの時DJを務めていた藤井サトル氏は
(僕と同じ大学に通っており、ウチの学校にも
こんなとんがった輩が居たのか!と 驚嘆)
その後ウラ原宿のカリズマとなる
藤原ヒロシ氏らと『CLUB KING』 をユニットし、
80年代のクラブシーン創世記を
席巻することになります。


そしてこの日最も楽しかったのがダンスやファッションが
カッコいいと認められたMODSは司会者の独断でステージに
上げられるというダンスコンテスト。60年代当時の英国の
TV番組『Ready Steady Go! 』を模したものですが、
ライブの合間にこんなことをすることがたまらなく新鮮でしたね。

始まって数分もしないうちにガンガン踊っていた
僕は「スゴイね~~!!」と呼び止められ
上げられたのを憶えています。
それもそのはず、バッヂを100個近くつけた
ポロシャツを着ていたのでダンスよりも
その鼻息の荒さに気圧されたのでしょう。
(そうそう、このときの司会者は確かアライさん!)

この日の出演バンドも、後に東京を中心に全国のMODSシーンの
牽引車となる黒田マナブ氏率いる『ページ・スリー』をはじめ、
現ザ・ハイロウズのマーシーと篠原太郎氏(ex ザ・ブリックストン)
が在籍していた伝説のバンド『ザ・ブレイカーズ』解散後、
最も人気の高かったスリーピースバンド『ザ・スタンダーズ』、
今も第一線で活動を続ける『ザ・コレクターズ』の前身『ザ・バイク』、
そして関西からは『ザ・モダーンズ』が駆けつけるなど蒼々たる顔ぶれでした。

特に『ハイ・スタイル』 のマンジ氏が書く後の渋谷系サウンドの
先を行くような60SバブルガムPOP的メロディと(乞う復活!)
オリジナルR&Bばかりを独特のフレーバーで カバーし続ける
『ザ・ブライトン・ブルービーツ』(後に『ザ・ヘア』と改名、
現在もクレージーケンバンドの横山剣氏とセッションをしたりと
シブいスタンスで活動中)のパーフォーマンスの大ファンでしたね。


当時のMODSシーンはジツに多士済々、さまざまな才能と
センスが自然と持ち寄られ、争うこともなければ馴れ合いもせず
見事なバランスを保って成立していたように思います。
それはその後ここから飛び出したたくさんの仲間たちがさまざまな
世界で各々名を馳せていったことからもうかがい知れることでしょう。
そしてそんな仲間たちと偶然にも幾ばくかの時間を
共有できたことを今でも誇りに思っています。


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