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2022.02.14

次のドアにノブは付いているか

 

「名声やカネではない。ただ本当のことが知りたかっただけだ」

昭和40年代後半、コンピューター付きブルドーザーと畏怖された大物政治家 田中角栄の金権構造を、緻密な取材と卓越した執筆力ですっぱ抜いたジャーナリストの故・立花隆は当時そう言い放ったそうだ。もちろん前者がなくていいと思うはずはなかろうが、それより後者が勝っていたということなんだろう。そうだ、僕らはずっと「本当のことを知りたい」と思っていたはずだ、何ごとにおいても。


インターネット社会になり、概ねのことは瞬時に調べがつくようになった。デジタルネイティブの子供たちが青年期を迎え始めた昨今、若年世代のソーシャルにおいてそれは何ら不思議なことではないことは今や周知だが、ほんのちょっと前までは知りたいことは図書館や公文書館などへ身体ごと移動し、全身を使って得るしかなかった。

イラストレーター駆け出しの頃、受けた絵の発注の中にアルマジロがあったことがあった。もちろん今ならネット検索で済むことだが、当時はまだ携帯電話さえ持っておらず、クルマで図書館まで調べに出かけた。

短時間で済ませばと、建物脇の通行量の少ない道に停車。当時はまだパトカーがチェックし次の巡回までに動かしていなければアウトという、やや優しいものだった。またそこは滅多に車が通らないので無料パーキングのような道路だった。何冊かの動物図鑑を借りて小走りで戻ったところ、なんとサイドミラーには例の黄色い「輪っか」が(40代中盤以上の方はご存知かと)しっかと回されていた。

そんなことをもちろん彼らは体験していないだろうし、似たようなことを体験した世代だって今や思い出したところでせいぜい経った時間の長さを嘆く自分が待っているだけで、何の意味もないことだと知っている。というか、そんな時代を思い出す行為すら今となっては忘却の彼方かもしれない。

 

 

 

しかし「本当のこと」はどうだろう。依然としてこれは渾々沌々、よく判別がつかないのではないか。

ネット検索を駆使すればある程度それめいたものをいくつか取り寄せることはできるだろうが、それは「本当そうな情報」に過ぎない。結果これだと行き着いた答えという名の部屋の中には、誰かの手による屏風絵があるだけだったりする。ネット空間にはそんな小部屋がいくつもある。しかし「本当」などそんなものなのかもしれない。

しかしその屏風絵を見たからには、僕たちにはその是非を決める義務が生まれてくる。いろいろなことが手軽に知れるようになったと同時に、これが本当ですと提示されればそれを一旦は受け取らねばならない。そんなことを繰り返すうちに、それ以上向こう側を見に行く気力も失せ、想像することもパスするようになってしまった。

何もしていないのに何もかもし尽くしてしまったような茫漠とした気持ちが人々を包み、本当のことを知ったところでどうせ何も変わらないとすっかり「知」に対して億劫になってしまっているように見える。なのに人々は、まだどこかにそそられる「興味」は残っていないかと、家で外で昼夜問わず小窓のスクリーン上を上下左右に指を動かしているのだから。矛盾撞着である。

 

携帯化したデジタルデバイスの普及やネット社会を腐すつもりは毛頭ない。弊害よりもベネフィットの方が大きいことは前世紀の自動車社会の到来と同じく、なにより自分だってその恩恵に随分とあずかっているのだから。

しかしこれは意外なことだ。ジョージ・オーウェルの書いたビッグブラザーは影の支配者などではなく、進んで小窓装置を買い求めた僕たち自身のエモーションの中にいたということか。

真実を握りしめたいとザ・ブルーハーツは『未来は僕らの手の中』でそう歌った。あれから40年近く経った今、僕たちはまだそう思っているのだろうか。今本当に知るべくは、おそらくそこではないか。

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