もうなのかなのか
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もう七日なのか
この言葉も例年吐いているような気がするが、大晦日からもう1週間が経つ。年をまたぐと1週間前のことが実際よりももっと以前のことのような感覚に陥るというのが不思議だ。例えばクリスマスが2週間前ではなく、もっと過去にあった感じがしないだろうか。
それはもしかすると太陽の光の加減が年をまたぐと事実ぐっと変わるのかもしれない。と、九州に来てから強く思うようになった。日本古来の旧暦=太陰暦で測らなければつじつまが合わないようにも思えるが、福岡県福津市の宮司浜のこの季節の夕暮れを見ていると、新暦=太陽歴でもこの仮設は不思議と当てはまるのである。
ここの海岸の入り口には鳥居があり、それと1kmほど内陸に入ったところにある宮司嶽神社の鳥居とが参道を介して一直線に結ばれていて、年に2回その鳥居の中にスッポリと嵌るように落ちる夕陽が拝める。それを待たずしてもこの時期のここの日没は神々しい。やはり12月の雰囲気と今月とではがらりと変わる印象が僕にはある。
その昔は交易の要衝で、さまざまなことがこの界隈を中心に決められたのではないかと推測される九州北部は尚更その感があるのだろうか。大晦日と元日のたった数時間の間に「旧年」と「新年」があるこの時期は、「時間の経過」の何たるかを教えてくれているようにも思える。大切に生きろなのか、早く成し遂げろなのか、それとも諸行無常、なのか。
生命がある、ということのほかに動物も昆虫も植物も平等に晒されているものがこの「時間の経過」だ。この惑星に乗っかっている限り、みな同じ速さの時間経過の中で息をし何かをしている。と、考えると自分以外もソコハカとなく愛おしく思えて来るし、幾ばくかの責任も感じるし、やり切れなさも感じる。少なくともオマエは生きている価値がないとかあるとかの議論が浅く愚かに聴こえるようになる。
今年はどう生きるか、いつもは重要なことをはっきりさせずにヘラヘラしている僕らもこの時くらいは真顔で考えても良いと思うがどうだろう。
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