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2016.10.12

果てしない遊びのマゾヒズム

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一過性の出来事についてはなるべく触れないようにしているのだが、今夏例のモンスターを捕獲するスマフォアプリが全世界的に流行した機会を借り、一度したいと思っていたゲームの話を。

80年代中期以降、家庭に上がり込んだことによってゲームはすっかり「遊び」の範疇を超えてしまった。30分程度で終わっていたプレイ時間は長期に及び、途中保存して後日また再開できるといういうなれば「完全生活密着型」へと変異してその性質を大きく変えた。本来はこの30分程度の中で完結する潔さに「遊び」としての清涼感があったのだが、その不文律を企業側が破壊した体だ。それによってこの業界は肥大できたのだろうが、プレイヤーは人生の大半の時間を彼らに捧げることとなった。

僕自身も中高生の時分はアーケードゲームに夢中で、日中に行かれなければ深夜にも家を抜出してゲームセンターへ脚を運ぶほどだった。が、ファミコンへは足を踏み入れなかった。それまで主流だったLSIや液晶のポータブルゲームと違い、ゲームセンターに肉迫するようなマシンを自室なんかに入れたら一日中やるに決まっていると踏んだからである。おそらく日常の大半をそいつに持ってかれるだろうことは十代のガキにも容易に悟れ、自分にとっての「次なる何か」の到来を大きく妨げるに違いないということもなんとなく予測できた。


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あれから30余年、僕の警戒していたことはほぼ当たった。いい具合にゲームと付き合っている人もいるにはいるのだろうが、おそらく少数派。僕も社会人になって一度だけ同僚からスーパーファミコンを借りてみたことがあったが、帰宅するやいなやお茶を飲む感覚で始めるというルーティンにスッポリと陥り、みんながなぜトリコになるのか、そして自分にもまだまだゲームにハマる素養が残っているということが判ってしまい、即返却した経験がある。セカンドライフ(課金制が介在するインターネットゲーム)に没頭するあまり、仕事から帰宅するやコンビニ弁当とビールを持って別々に部屋に閉じこもってプレイするという夫婦を以前ドキュメンタリー番組で観た時、そりゃあそうなるだろうなと思った。好きだったゲームが、人間の「中毒性」に寄る巨大産業へと結果変遷してしまったのかと思うと至極残念だ。


また、今のゲームにはあまりにも画面のリアルさ以外のサムシングが感じられない。黎明期のゲームのグラフィックの洒脱さや面白さ、機械本体のデザインの美しさ(70年代のmatel社やbambino社のポータブルゲームのシェルは最高にカッコイイ!)など、インダストリアルプロダクトとして評価する余地が多分にあった。しかし、80年代半ばに登場したN堂のファミコンはそれらをまったく軽視したパッケージだった。どう見ても美しいとは思えないデザイン、価格を抑えるため一番安価な樹脂の登用の結果だったという赤とベージュの配色。僕があれを家に入れなかったのは、手元に置きたいと思えなかったからかもしれない。

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70年代後半に登場したbambino社のフットボールゲームはジオメトリックなデザインが秀逸。翼のような部分はスピーカーになっており、どことなくスタジアムを表現しているような感じがするもスターウォーズに出て来そうでもある。とにかく斬新なフォルムだ。

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同じくbambino社のボクシングゲームは左右対戦型。初期のポータブルゲーム機はこの鮮やかなブルーグリーンのLEDでヴィジュアルが作られていた。まろやかなブラウンのボディに鶯色のボタンというカラーリングはインテリアにも充分溶け込む。

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こちらはやはり70年代後半に登場したMatel社のフットボールゲーム。本体のみならずケースのイラスト、ロゴを含めたアートディレクションが素晴らしい。パッケージコンセプトがとてもしっかり練られており、単なる玩具ではなく工業製品としても高く評価できる。以上のゲームはいずれも10〜20分程度のプレイで終わる。


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初期ホームアーケード型の雄Vectrex社のカートリッジ式ゲームはやはり70年代後期の製品。ビット数の制約がある中でのスペースシップの表現は今見るとベリー・クール。ゲームヴィジュアルはこのくらいのシンプルさがカッコイイ。


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ヴィジュアルもアニメに寄ったものが多い印象で多様性が感じられない。以前は気鋭の海外イラストレーターにキャラクターデザインを手掛けさせたりして、業界外の血を入れることに注力していた感があったが、昨今はそんな話も聞かなくなった。そんなことを作り手も受け手もまったく視野から外してしまった様子で、売れれば内輪ウケでも全然OKと開き直ったカンジが強くする。ただただ、予定調和な作り手とそれを待つ特定の消費者との間で莫大な金銭と商品配達がやり取りされる。それが延々と続いているようにしか見えない。

今回のアプリがプレイヤーをドアの外にひっぱり出したことはひとつエポックかもしれないが、結局は「またもや巨大企業にみんなで同じことをさせられている私たち」であり、それを指摘する者が相変わらず“やる側”から出て来ないことにため息が漏れる。この重度ともいえる「なれ合い感」がこれらゲームというものを文化やアートの域まで到達させない大きな要因なのではないかと以前から思っていた。おびただしい数の愛好家がいるというのに。

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業界内の違和感やあり方について唱える者が出て来て、彼らが何か別のジャンルで「ゲーム出身者」というスタンスからモノを作り始めたならば、「ゲームは文化でありアートだった」と見直す向きも出て来ようが、その好例は未だ耳に届かない。音楽も映像も介在するゲームは総合アートたり得る可能性を持っているのに、そこに踏み入ろうとする者が一向に現れないのはおそらく「いかに消費者をトリコにするか」という企業的イシューが強過ぎるためでもあり、それを受け手が甘受しているからではないか。

以前、子供の通う保育園にピカチューの着ぐるみが現れて園児たちにカードを配りだしたという話を友人から聴いた。そのカードはどうやらゲームに関わるもので、それがあれば次のステップに行かれるといったようなインセンティヴが付いていたそう。そこまでやるのか、えげつないと怒りを露にしていた友人は「親の主義や経済状態からゲーム機を持ってない子だっているはずだ」と。しかし彼らはそんな親子こそをターゲットにしているように思える。良識を持ってすれば、そんなことをするなら子供はしなくてもいい「格差」を感じなくてはならなくなるということくらいはわかるはずだ。許す保育園の運営者も運営者だが、そんな“容赦ない立派な企業人”たちがこの業界の主軸にも座っているということを図らずも感じる。


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総じて言えば、作り手も受け手も「停滞」を好む世界の住人なのである。そして「遊ぶ」のではなく「遊ばされる」如いては「遊ばれる」のが好きなドMな人々の方がこの世には圧倒的に多い。売れているうちはいつまでも売り続けたい企業と、いつまでも遊ばせてもらいたい消費者の利害が完全合致したということなのだ。

登場後かれこれ30年をも経るゲームキャラクターの作り手ならば「ポケットモンスターは素晴らしかっただろう?でももうここまでだ。始まりがあれば終わりがある。さあみんな次へ行こう」と完結させることが本来は望ましいと思う。良いもの、美しいものには終わりがキチンとある。その終焉は作った者が決めるものだし、受け手にもそれを伝えるべきだ。

しかし、利益最優先のマゾ社会ではそうならない。この相互の強度依存は「商品としての延命」が目的なだけの蠕動(ぜんどう)運動を今後も延々と続けてゆくだけだろう。果てしないプレイ時間のゲームのように大勢のマゾヒスティックな人々を巻き込みながら。ジツに無粋、いや不気味だ。


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