GODZZILAではない、ゴジラだ!
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先夜、近所の仲間と夕食がてら人里離れたシネコンへ行って『シン・ゴジラ』をさくっと鑑賞。同行者1名は同い年、1名は80年代生まれでゴジラ体験ほぼナシ。前者は途中から前席背もたれに乗り出して鑑賞、後者はうたた寝。彼らの真ん中の席にいた自分にとってこの温度差が先ず面白かった。
というのも両者の感覚が判ったからでもある。とにかく政府官僚をはじめ自衛隊やら学者やら「国体側」の侃々諤々「しゃべるシーン」が長い。しかも異常なほど早口。東京出身でも九州でのユルやか生活を送っている自分の耳にはすでにキツい。これをこのまま海外で字幕上映したら「に、日本人て…」と思われるだろう(笑)なので非ゴジラ世代にとっては尚更眠くもなるだろうなこれは、と思えた。
そして乗り出して観る方の気持ちも。常にアラや矛盾をチェックしながら観る(SFは特に)クセが抜けない自分でも「おお!」と引き込まれるシーンが多々。SF映画はいわずもがなリアリティがキモであるが、その舞台にこのグチャグチャとビルが乱立したした現在の首都をよくぞ選んだと感心(旧作シリーズは暴れるときは山奥に引っ込むパターンが多かったからね)。
例えば電車がゴジラに投擲されて着地し破壊されるシーン。客車本体がまずオフセット衝突で崩れ、分離したシャーシーだけがガーっと道路を走ってゆくのだが、よく考えられている。こういう物理的な予測をすべてのシーンでしなくてはいけない。ビルはこう崩れるはず、橋梁はこう切れるはずと微に入り細に穿って忖度しなくてはいけない。本来はモンスターが暴れ廻るところよりもむしろそちらを丁寧に描かなくてはいけなかったこのテの映画は、随分とその部分をサボって来た。なのでご都合主義の着ぐるみコドモ映画と揶揄されて来たのである。そこをこの作品ではキチンと行っている。エヴァでその辺りが高く評価された庵野氏とその意を汲んだスタッフの素晴らしい仕事だ。
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終わってみればこれは怪獣映画ではあるもののその実は社会ドラマだなと。震災やゲンパツの事を連想させるシーンが多々あり、当然ダイレクトに「それ」の表現もされている。それもそのはず、昭和29年に公開された「ゴジラ」の初作は諸説紛々あれど反核の意義を強く下地に絡めた作品だった。原爆を2発も投下されたにも拘らず、おかまいなしにガンガン核開発を進める米国に対して何の口出しもできない(というより喜んで乗っかっていたフシさえあり)日本国政府に切歯扼腕していた円谷英二の渾身ハイキックだったのではなかったか。だからゴジラは放射能を吐き国会議事堂に迫ったのだ。
震災がありゲンパツが爆発しそれでも再稼動し、反動主義に走る政権。時代背景が重なる、というより60年以上経っても何も変わっていない状況に激怒した円谷氏の亡霊が庵野氏に憑依(ひょうい)し、この映画をもう一度作らせたのかもしれない。
(でも石原さとみの役は必要だったのかなあ 笑)
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