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2015.07.19

雨は上がる

今日、九州から関東甲信越地方にかけて梅雨が明けたようだ。


震災から4年と4ヶ月。随分と時間が経った。
年初にここで「大殺界が抜け…」なんて書いたので、いい加減明るいことを考えねばと思うが、なかなかそうさせてくれずに半年。時世のせいばかりにしたくはないが、どうも世の中が僕たちが行きたい方向と逆に向かっているとしか思えず、何をしていても心に暗雲が暗く垂れ込めて来る。

戦をする準備を始めているようにしか見えない現政権や、明らかに迷走しているゲンパツの後始末、何もなかったかのように進められる再稼働。税改正で更に取り壊しが進む古い街並みと、闇雲にビル化して行く宅地。そして頻発する地震や火山活動… 今となってはあの震災がこの暗澹たる時代の火ぶたを切ったかのようにさえ思え、こうなって来るともう一個人ではどうしようもないようにも思える。


そんな中でここ最近注目を集めている《SEALs》という若者たちにはとても勇気づけられた。彼らの前身団体の集会の動画である若い女性の演説を観たのだが、彼女の主張には驚いた(「みきちゃんのスピーチ」で検索)。

それは単なる反戦讃歌や政権へのがなりたてではなく、むしろ内側に向けられた自戒的内容で、自分を含め個々人のマインドの持ち方について語っている。少々“青年の主張”的ではあるものの、50年代のアングリー・ヤングメンや僕が十代の頃聴いた英国のポップミュージックにも共通点があり、ややもすれば揚げ足を取られがちな右か左かの“どっちの翼”論も超えた論旨。まさにこういう話が聴きたかった。

もし参議院で法案がムリクリ強行可決されたとしても、次代には彼らが控えていると思えば何の心配もないような心持ちになり、悪政が皮肉にもしっかりとした次世代を育ててくれた感に溜飲も下がった。

*
彼らのように大きなデモやパレードには参加したくとも物理的にできないという人もいるだろう。しかし僕たちがそれぞれの場所でやれることはある。それは人と話すことだ。仮に解り合うことができなくとも、タブーを作らずお互い思いのたけを話すこと。そしてそれを常日頃からすること。一個人の力では何も変えられないように映るこんな時代だが、変化の風とはいつも個々人の足下から起こるものだ。

この在京中の2ヶ月間、毎日のように人と逢っている。会社員時代、営業職をしていたとき上司に「苦手な人ほど会いに行け」と言われたが、そんな人が周囲にいない今日はご無沙汰していた人から順番に我が家に招いたり、逢いに行ったりしている。僕にとってこれはむしろ生理現象に近い衝動で、それはどうやら周期的にやって来るようだ。

ちょうど会社員生活にピリオドを打った20年前も何かに取り憑かれたように友人知人に逢いに行った。そして毎晩のように友人と話す夢を見たのを細部まで覚えている。あの1年間は寝ても覚めても誰かと対話していた。思えばあの頃も今同様、これからどうして生きて行ったものかと懊悩輾転(おうのうてんてん)としていた時期だった。

瞳の奥を確認しながら話す時間は、僕らにバイタリティとヒントをくれる。人はひとりでこの世に出て来てひとりで去るが、それは自分ひとりだけではない。みな平等に「ひとり」なのである。そのことを覚えておけば、自分がどのような境地にいようと、疑心暗鬼になったり誰かと比較して落ち込んだりおののいたりする必要はない。生きている限り今日も僕は誰かと逢い、話をする。


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