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2012.12.15

コトバの裏にあるココロ

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『日本タメぐち協会』という集まりがあるらしい。
なんでも、集会(飲み会?)中はお互いをファーストネームで呼び合い敬語や謙譲語は厳禁、一回使うごとに罰金10円が科せられるという。現在使われる敬語の多くは「相手に反感を買われないようにするための術」であり「諍い(いさかい)回避の道具」であって、本当に相手を敬う気持ちの発露ではなくなって来ている、その形骸化したケイゴが膝を交えて本音で話し合うという機会を人々から奪っている、もう甲冑のような“形だけケイゴ”は脱ぎ捨てて、対等コトバ=タメぐちで話そうじゃないか〜というのが彼らの言い分のようだ。

それについては僕も以前から同じようなことを思っていた。さすがに初対面の相手やハッキリした主従関係での場合には該当しないだろうが、ある程度仲良くなったら年齢の上下関係なくタメぐちで話した方が良いと僕は思っている。必要以上の敬語は本心の所在を不明にさせ、深意の話し合いの機会を遠ざけてしまう。それが続けば相手への意思表示は停滞、溜め込んだ気持ちがある日一気に相手に向かって暴発(=ブチ切れるという表現だと解り易いか)という結果に繋がり兼ねない。そうなる前に日頃から意見を言い易い関係性を築いておいた方が良いわけで、そのためには上下関係の関与しないコミュニケーションを取っておく必要がある。それに敬語は邪魔な存在となるのだ。


僕が大学時代に籍を置いた音楽サークルにはほとんど敬語はなかった。先輩には「さん」付けしながらも「だよね」「でしょ」で会話を締めていた。それに対して異を唱えたり叱咤する先輩は皆無、もちろん彼らも上級生に対して同じようにタメぐちを使用して来た経緯があるから怒ろうはずもない。しかし、決して年長者をいたずらに対等化するようなものではなく、「敬い」と「親愛」のあるタメぐちだったことは確か。そして、そのことは逆に闊達な会話の空気を作っていたように思う。なので上も下も関係なく彼らとはよく本心から話し合ったという記憶がある。ただただ無意味に縦型関係をなぞることは、いろいろな意味で利益を損なってしまっているだろう。その経験もあって僕はタメぐち派なのである。


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ならば、いかなる場合も同級生みたいに馴れ馴れしい態度で話せばうまくいくのか〜と考えるのもまた拙速。そこには必ずや一定の「相手を敬う」気持ちがなければダメ。緊張感のないケジメ無き付き合いになってしまうし、ひどければ世間知らずの規律違反者として遠ざけられるのは自明の理。敬語からタメ語へのテイクオフは丁寧にし、相手には「敬われている」という感覚を与える配慮を怠らず使わなくてはいけない。また、タメぐちを使うからには年下の自分に与えられたアドバンテージやハンディキャップは消え、そこも対等であるということは重々覚悟しよう。

そういった微妙なニュアンスをタメ語に乗せて話すことは、むしろ敬語や謙譲語を使うことよりも難しいだろう。しかし、それだけに会話力や表現力のスキルアップにもなるし、本気の関係も生まれて来る。やはり言葉遣いの第一義は、そこに相手を敬う気持ちがあるか否かであって、形式ではないということなのだ。「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という語があるくらいだから、人は言葉そのものよりその向こう側にある人の気持ちを読むものなのである。

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というわけで、明日は衆議院選挙の投票日当日。
勝手に始まった与党VS野党第一党連合軍の覇権争いは、二極だいや第三極だと永田町をダッチロール、稲麻竹葦(とうまちくい)の様相を帯びながら今日に至ってしまった。これとこれはくっつけられるんじゃないの、これとこれはくっつくのはおかしいんじゃないのと、なんだか科学雑誌の付録で遊んでいるみたいな合従連衡のオンパレード。選ぶ方にして見たらはその意図にまったくついてゆけず、どの党が云々に賛成だ反対だとまるでサッカーの対戦表でも見るかの如くの政党選びを強いられている。今まで棄権したことのない自分でさえウンザリしているのだから、ヘキエキしている人が大勢いることは推して計れる。

しかし、ほんの4〜5年ほど前までの「ナニトゾ○○をお願い致します〜!」のシャウト一辺倒だった選挙運動はすっかり消えた感があるのはちょっといい。徹底した具体性が遊説には求められ、候補者にもやたらなことをいえばすぐに見透かされ政党力の強弱に関係なく失墜するという緊張感が生まれているように見受けられる。阿呆のひとつ覚えのような名前連呼では、もはや国民に響かないとやっと悟ったようだ。

これはSNSやTwitter、インターネットの動画サイトなどですぐに情報が市井に共有されてしまう世の中になったひとつの成果だと思う。そして多数の国民があの忌まわしい3.11から「このまま放っておくとどうなるか判らない」と危機意識を向上させたことの証でもあるだろう。斯くいう僕もこんなに国会中継やら政治討論番組を見た2年はない。「政治行政は信じるものではなく見張るものだ」といった人がいたが、そうだとすればそれを何十年も疎かにして来たツケが今日のこの状況なのだと合点もゆく。やはり僕たち個々人が知ることに貪欲になり、賢くなってしっかりジャッジするということしかこの状況を動かす方法はないのだろう。


それでも投票に迷っている人は多かろう。どうしても決められない時はひとつの方法として、公約の中で、なかんずく原発について言葉を巧みに操り直言を避けるような党首の政党には入れないという消去法的手段もある。それを奨励している人は僕のほかにも結構いるが、要は彼らが流暢に発している「いかにも」な言葉の裏側にある彼らの心を読めばいい、ということだ。

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