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December 2012

2012.12.21

『FLAT HOUSE LIFE vol.2』発売のお知らせ

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本日21日『FLAT HOUSE LIFE 』の二冊目をリリースしました。


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3年前に上梓した、関東南西部〜東京都下に点在する古い平屋とそこに住む人々に魅力的な暮らしを紹介した一冊目には、実はいくつかの反省点がありました。そのひとつが掲載物件数。17棟(コラムを足すと18棟)というボリュームに本が追いつかなかったという点です。

出版社トップからは当初「30物件載せろ」という、僕から言わせれば内容を鑑みない極めて無謀な要求が突きつけられましたが、NOと返答。「それは自殺行為。そんなに詰め込んだら平屋の良さは伝わらない。巷によくある商業インテリア誌になってしまう」と強く抵抗し、何とかこの棟数にまで留めさせたという経緯があります。(まあ、経営者をはじめ役員クラスの人々は「中古平屋の本なんか売れるのか?」程度にしか思われていなかったようですが、強く共感してくれていた女性編集者の尽力に助けられた形です)


それでも最終的には17軒でもたっぷり2冊、いや3冊は作れるだろうボリュームが用意した材料にはあったのです。その中には掲載物件の数十年前の初々しい姿を収めた写真や老朽化した数多くの廃墟ハウスの写真もあれば、建具類を集めたコラム『パーツミュージアム』ももっともっとバラエティに富む予定でした。

最初の一軒を執筆し終えた直後、この調子ではとても1冊には納まらないと早々に判断できたため、二冊に分ける「分冊案」を上申しましたが、検討された気配もなくふたつ返事で却下。たらればの話になりますが、もしそれがキチンと検証し検討された上で答えが出されていたならば、上記の写真や断腸の思いで割愛したカットをすべて載せた上下巻が存在していたはずと信じています。

そしてもうひとつが版形。本当は25cm角くらいの正方形、ダメでもB5でと考えていましたが、まぁ無名イラストレーターの初著書ごときにそこまで冒険できるかといったところだったのでしょう、一般的なA5というサイズに落着。その上18棟というボリュームから否応なく写真が細かくなってしまった。その点も悔いる部分でした。

にも拘らず多くの方々がこの書をお買い求めくださったことは驚きに値し、感謝も絶えない中ひとまず安心はできましたが、その分用意した材料を余すことなくお見せできなかったという悔しさが日に日に大きくなっていきました。


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その轍から誕生したB5版形一冊平屋一軒の自費出版書『FLAT HOUSE style』。現在vol.3まで上梓し、おかげさまで創刊号とvol.2は完売するに至りました。しかしながら、その後取材を進めるうちに「載せたいけれど一冊には満たない」という物件に少なからず出会うようになったことも事実。それらを紹介するのにはやはりF.H.LIFEは適していると考えられるようになり(もちろんF.H.styleでも充分取り上げられるボリュームの家も載っていますが)完売した2刊もなかなか重版がかけられず、ご注文やお問い合わせにもお応えできない状態の中、安定供給できる初著はそれなりに役割があることを認識するに至りました。そんなことが2冊目を出す動機となった次第です。


また逆説的ですが、先の大震災やゲンパツ爆発による心身への影響も少なからず制作の後押しをしてくれたと思います。その辺りについてはまえがきでたっぷりと解説していますのでご一読ください。

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先述の通り、物件数を前作よりも減らし、その分それぞれの平屋の写真点数を増やしてじっくり紹介することに主眼を置きましたので、載せこぼしはほぼナシ。A5サイズで200ページ弱の本であればこのくらいの軒数が限界という僕の当初からの考えが反映され、ちょうど良いボリュームに仕上がっていると思います。


最近世間を騒がせている、およそ5000年を一周期とした「マヤ暦」によれば今日がちょうど周期の節目で文明がリセットされる日とのこと、何の因果かそんな記念すべき日に発刊された第二弾。人類がこの一両日中に終わってしまうか否かはまだ判りませんが、生まれたての『FLAT HOUSE LIFE vol.2』がみなさんの人生の節目のきっかけとなるテキストとなってくれれば幸甚です。

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2012.12.15

コトバの裏にあるココロ

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『日本タメぐち協会』という集まりがあるらしい。
なんでも、集会(飲み会?)中はお互いをファーストネームで呼び合い敬語や謙譲語は厳禁、一回使うごとに罰金10円が科せられるという。現在使われる敬語の多くは「相手に反感を買われないようにするための術」であり「諍い(いさかい)回避の道具」であって、本当に相手を敬う気持ちの発露ではなくなって来ている、その形骸化したケイゴが膝を交えて本音で話し合うという機会を人々から奪っている、もう甲冑のような“形だけケイゴ”は脱ぎ捨てて、対等コトバ=タメぐちで話そうじゃないか〜というのが彼らの言い分のようだ。

それについては僕も以前から同じようなことを思っていた。さすがに初対面の相手やハッキリした主従関係での場合には該当しないだろうが、ある程度仲良くなったら年齢の上下関係なくタメぐちで話した方が良いと僕は思っている。必要以上の敬語は本心の所在を不明にさせ、深意の話し合いの機会を遠ざけてしまう。それが続けば相手への意思表示は停滞、溜め込んだ気持ちがある日一気に相手に向かって暴発(=ブチ切れるという表現だと解り易いか)という結果に繋がり兼ねない。そうなる前に日頃から意見を言い易い関係性を築いておいた方が良いわけで、そのためには上下関係の関与しないコミュニケーションを取っておく必要がある。それに敬語は邪魔な存在となるのだ。


僕が大学時代に籍を置いた音楽サークルにはほとんど敬語はなかった。先輩には「さん」付けしながらも「だよね」「でしょ」で会話を締めていた。それに対して異を唱えたり叱咤する先輩は皆無、もちろん彼らも上級生に対して同じようにタメぐちを使用して来た経緯があるから怒ろうはずもない。しかし、決して年長者をいたずらに対等化するようなものではなく、「敬い」と「親愛」のあるタメぐちだったことは確か。そして、そのことは逆に闊達な会話の空気を作っていたように思う。なので上も下も関係なく彼らとはよく本心から話し合ったという記憶がある。ただただ無意味に縦型関係をなぞることは、いろいろな意味で利益を損なってしまっているだろう。その経験もあって僕はタメぐち派なのである。


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ならば、いかなる場合も同級生みたいに馴れ馴れしい態度で話せばうまくいくのか〜と考えるのもまた拙速。そこには必ずや一定の「相手を敬う」気持ちがなければダメ。緊張感のないケジメ無き付き合いになってしまうし、ひどければ世間知らずの規律違反者として遠ざけられるのは自明の理。敬語からタメ語へのテイクオフは丁寧にし、相手には「敬われている」という感覚を与える配慮を怠らず使わなくてはいけない。また、タメぐちを使うからには年下の自分に与えられたアドバンテージやハンディキャップは消え、そこも対等であるということは重々覚悟しよう。

そういった微妙なニュアンスをタメ語に乗せて話すことは、むしろ敬語や謙譲語を使うことよりも難しいだろう。しかし、それだけに会話力や表現力のスキルアップにもなるし、本気の関係も生まれて来る。やはり言葉遣いの第一義は、そこに相手を敬う気持ちがあるか否かであって、形式ではないということなのだ。「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という語があるくらいだから、人は言葉そのものよりその向こう側にある人の気持ちを読むものなのである。

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というわけで、明日は衆議院選挙の投票日当日。
勝手に始まった与党VS野党第一党連合軍の覇権争いは、二極だいや第三極だと永田町をダッチロール、稲麻竹葦(とうまちくい)の様相を帯びながら今日に至ってしまった。これとこれはくっつけられるんじゃないの、これとこれはくっつくのはおかしいんじゃないのと、なんだか科学雑誌の付録で遊んでいるみたいな合従連衡のオンパレード。選ぶ方にして見たらはその意図にまったくついてゆけず、どの党が云々に賛成だ反対だとまるでサッカーの対戦表でも見るかの如くの政党選びを強いられている。今まで棄権したことのない自分でさえウンザリしているのだから、ヘキエキしている人が大勢いることは推して計れる。

しかし、ほんの4〜5年ほど前までの「ナニトゾ○○をお願い致します〜!」のシャウト一辺倒だった選挙運動はすっかり消えた感があるのはちょっといい。徹底した具体性が遊説には求められ、候補者にもやたらなことをいえばすぐに見透かされ政党力の強弱に関係なく失墜するという緊張感が生まれているように見受けられる。阿呆のひとつ覚えのような名前連呼では、もはや国民に響かないとやっと悟ったようだ。

これはSNSやTwitter、インターネットの動画サイトなどですぐに情報が市井に共有されてしまう世の中になったひとつの成果だと思う。そして多数の国民があの忌まわしい3.11から「このまま放っておくとどうなるか判らない」と危機意識を向上させたことの証でもあるだろう。斯くいう僕もこんなに国会中継やら政治討論番組を見た2年はない。「政治行政は信じるものではなく見張るものだ」といった人がいたが、そうだとすればそれを何十年も疎かにして来たツケが今日のこの状況なのだと合点もゆく。やはり僕たち個々人が知ることに貪欲になり、賢くなってしっかりジャッジするということしかこの状況を動かす方法はないのだろう。


それでも投票に迷っている人は多かろう。どうしても決められない時はひとつの方法として、公約の中で、なかんずく原発について言葉を巧みに操り直言を避けるような党首の政党には入れないという消去法的手段もある。それを奨励している人は僕のほかにも結構いるが、要は彼らが流暢に発している「いかにも」な言葉の裏側にある彼らの心を読めばいい、ということだ。

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