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2012.02.06

浅き春に今生の別れを

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎号イラストを描いている某雑誌のコラムである作家が
「自分の生活の区切りは正月ではなく作品の仕上がりである」
と言うようなことを書いていて、うむナルホドと思った。

しかしそうなると仕事と仕事のスパンがもう少し短い私には
年に何回も正月が来てしまうことになる。それを考えると
自分の場合少々長いけれど「転居」がひとつの区切りに
なっているかも知れない。

 

現に「ドコソコ在住時代」というように住んでいた場所によって
これまでの人生を区切って考えている節があり、そうすることで
何かとてもスッキリと分類できているような気がしている。
(さながらビートルズでいうところの下積み生活の頃を
「ハンブルグ時代」と呼ぶように )

 

 

 

+

 

 

 

 

週明けの今日、遂に近所の米軍ハウスの取り壊しが始まった。
昭和29年築のこの平屋は、半世紀以上も建っていることになる。
一昨年夏頃から4棟のハウスの取り壊し交渉が始まり
最後の一世帯が昨11月に退去、今週その日を迎えることとなった。

 

この家は拙著でも紹介した米軍ハウスで、
その最後の世帯とは私に現居を紹介し入居に導いてくれた
塩原高旨さん一家なのだが、彼らと知り合った15年前ここに
訪れたときのことは今でも忘れられない。

 

明らかに他の平屋より高い切り妻屋根はハウスの特徴。
ベージュのモルタル壁、アイアンの低い門扉、
グリーンにペイントされたの木製ドアと網戸ドア、
トタン屋根の木製ガレージ、うっそうと樹木が茂る庭には
アンティークに近い風合いのアトリウムがあり
「西洋」の空気を醸したファサードだった。

 

立川以西に行かないとお目にかかれないと思っていた
Dependents Houseが、まさか自分の生活圏内に
存在していようとはユメにも思っていなかったので、
驚愕と同時に後悔のようなジェラシーのような
不可解な気持ちに一気に襲われたのを憶えている。

 

 

 

+

 

 

 

一家は1976年からこの家で暮らしていた。ここで生まれ
育ったひとり娘のアンジュリさんは昨年末子供を授かった。
そこまで長期間寝食を共にした家が取り壊されるというのは
いったいどんな気持ちになるのだろうか、経験を持たない
私にはその手のプレパレーションに自信がない。

 

塩原さんは記念にガラス入りのドアを2枚外して持ち帰った。
新しく建てる家に使用するそうだ。彼らと別れた後、独り残
って改めて家をゆっくり見回すとこちらの脳内にあった15年
間の思い出がじんわりとにじみ出て来た。

 

 

彼らにとってこの転居は明らかに人生の大きな節目になるに
違いない。が、ちょうどフリーランスになった頃にこの家を
訪れた私にとっても、今回の取り壊しでひとつの「時代」が
締めくくられたような気がした。

 

 

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しかし胸が締め付けられる光景だ。住人が暮らしていた姿を見て来ただけにことさら寂寥感がつのる。

 

 

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35年の間リペイントが殆ど行われなかったためヤレ具合はかなりの深度だが、本気で直せばまだまだ十分住めるように見える。今後家の稀少性が高まる可能性があるので再利用を考えてはとオーナーにも進言したが、昨年の震災にさらに解体の決意を固めてしまったようだった。

 

 

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ドア、木枠の窓、ライト、金具、スイッチプレート、換気扇など数々の部品をサルベージした。これらは必ずどこかで蘇生させる所存だ。

 

 

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ガレージの天井裏に住み着いていた白猫にももうじき住めなくなる旨を伝えておいた。

 

 

 

 

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それにしても、こういう場面にいくら遭遇したところで持ち主でない限りまったくの無力。せいぜい使える器具や建具をサルベージするくらいしかできることはない、ということにいい加減やり切れなさを感じながら塩原一家を見送った。

 

 

 

 

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Comments

家がなくなること。
それはすさまじい喪失感です。
自分の属していた世界が失われる実感。
ただ引っ越すのとは全く意味合いが違う。
記憶の中にある「家」は、いつもいつも瞼の奥にあるのです。
それでも、そこがもう存在しない痛みはどうしても同時によみがえってくるのです。
その家を愛している度合いが深ければ深いほど。
自分にとって大事な時間がそこで紡がれていればいるほどに。

でも、形あるものはすべて失われます。
それだけは真理だとおもうのです。
アラタさんが本にしてくれたこと。
家も喜んでいるよ。きっと。

Posted by: SATOKO | 2012.02.07 10:59 AM

◆SATOKOさん
そうですね。僕が通っていた都立高も数年前に道路再整備で
無くなってしまいましたが「母校が無い」という事実には
数十年経った今でもしっかりとした喪失感を憶えます。
これが35年住んだ家ともなると…想像するのが怖いですね。

本にした時、当然こういう日が来るだろうとは思っていましたが
まさか2年後とは。あまりに早過ぎました…。
もし本当に家が喜んでいてくれるとしたらせめてもの救いです。

Posted by: arata coolhand | 2012.02.07 05:13 PM

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