そして、『占領軍住宅』へ
「ああ、S原だけどね、来月ウチの並びのハウスが一ツ空くってさ」
10年ぶりの転居は年初に来た知人S氏からの電話で始まった。
ハウスとはいわゆる『米軍ハウス』のこと。ご存じの方も少なくないとは思うが、第二次大戦後米軍が日本を極東アジアの軍事拠点と位置付けした際、政府に依頼し駐在兵士のために大量に作られた民間の借り上げ住宅をいう。
正式にはDependent House/占領軍扶養家族住宅というらしいが
ワレワレの間での通称は『米軍ハウス』。
70年代に入ってベトナム戦争が終結に近づくと軍備も縮小、
それに合わせ駐在兵士が続々と引き上げていったため
必然的にそれらは余り、次第に日本人に貸し出されて行った。
それらに住み着いたのがミュージシャンだったり写真家や画家だったりしたため70年代の日本のカウンターカルチャーの舞台装置として大いに機能し、その後クリエイターやアーティストの憧憬の発信基地として語り継がれていった。
しかし10~15年前辺りから老朽化や家主の代替わりによる取り壊しが著しい。住むのならそろそろ本気で探さないと、いうのが昨今のハウス事情だ。
S原氏はそんなハウスに30余年前から住む隣町の住人で、フリーになってから通うようになった平日の公営プールで知り合った御仁。自宅で英会話教室を営んでおり奥様はイギリス系米国人。ひとり娘のAさんはアメリカンスクールの卒業生、宇多田ヒカルとは同級で当事よく家に遊びに来ていたらしい。
この20年、東京・神奈川・埼玉の米軍ハウスを山ほど見て来たが
僕の知る限りでは一番東に位置するハウス郡で以前から気になっていた。
ただ、2ブロックに渡り11棟ある同オーナー所有ハウスは
どこも滅多に空かず、空いた瞬間すぐ埋まるという
まさに逃げ水のような物件だった。
そこが一棟空くという。
どうやら前住人の退居はこの大不況に起因する様子。
よく「不況の時こそチャンス」と言うが、それが引越しというカタチで来るとは。
とりあえず空いたらすぐ内覧を希望する旨をS氏に伝えた。
2月に入ると前住人が退居、職人が入って壁を塗り替えたり
修繕したりと化粧直しを始めたため内覧が可能になった。
我が家からクルマで10分足らずというロケーション、早速見に行くことに。
「おお~!いいねえ!!」一歩踏み入れたとき思わず独りごちた。
リビングの広さは今まで見て来た物件の中でもベスト3に入る。その奥に見えるキッチンは現居のリビング以上あるのではないか。また、木製の窓枠やドア、塗装の剥げた床、旧型のシンクやトイレなど古いパーツがそこここにグッド・コンディションで残っているというのがイイ。
広々した庭もあり屋根はないまでもゲート付きガレージも。この広さならうまくやれば2台停められそうだ。
しかし、それでもなかなか決断できないものである。
2日ほど悩んだが、前住人が住んでいるときに一度外から見たことを思い出した。長さの合わないカーテンの隙間からてらてらと灯された真っ白い蛍光灯がのぞいていたため、ああ~もったいない住み方をしているなァとため息が漏れてしまった。
最終的にはその時のため息の思い出が背中を押した。この家をまたあんなふうに住まわれてはかなわん!という気持ちがむくむくと首をもたげ、その瞬間入居を決めた。そしてその瞬間から3kgもやつれたジゴクの引越し劇が始まるのである~(あーやだやだ)
そして入居から3ヶ月。移った当初は季節もまだ初春、冬の名残で寒かったがもう初夏。庭に敷いた芝生もしっかりと根付き出し、当初は居心地の悪かったリビングのだだっ広さにすっかり慣れた自分に驚いている。
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