淋しいのはおまえだけじゃない
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というタイトルのドラマがあった。
80年代の初頭だっただろうか、まだドラマが新人タレント
売り出し用ツールではなく観る側がそこにリアリティや
アイデンティティ、哲学を強く期待していた時代の作品で
西田敏行や財津一郎、河原崎長一郎といった
演技派俳優たちが当たり前のように多数出演していた。
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夏の終わりのこの時季になると僕はムショウに淋しさをおぼえる。
これは子供の頃からで、十代の多感な頃は半ウツのようになったりした。
最近は夏が激暑化して来たことも手伝って、
年齢と共に秋の清涼感が楽しみになるようになっては来たが
それでもふと寂しさを感じる瞬間がある。
以前いたたまれなくなってこの話を誰かにした時、
それはニンゲンが進化以前冬眠をしていた頃の名残で
とてもプリミティブなことなんだよ、と説明して
くれた人が居てひどく安心した記憶がある。
秋葉原の例の事件後しばらくは
「通り魔的無差別殺人が増えた」とたくさんの報道番組で
幾人もの○○ニストさんたちがチャートボードを
振りかざしながら口角泡を飛ばしているところを見たが
結局のところ「なぜなのか解らない」と言う以上の
言及ができる者はいなかった。
ここのところTVやラジオをつけると
キミは独りじゃないよ、僕は私はここにいるよ
いつもあなたのそばにいるよといった類の
なだめすかしソングがやたら耳につく。
僕はこういう曲とそれを歌う人に
激しい嫌悪感と猜疑心を無条件に持ってしまう。
「そんなふうに言うのならば、おまえは
聴き手全員のそばに居てやれんのかね?」
そんな不可能なことをあたかもしてあげられるかのように
本来なら個人から個人に対して語るようなことを
不特定多数に向けて救済するかのように歌うのは
メディアの波及力・影響力というものを軽視した無責任な行為だ。
もしこの歌を耳にした人の中に社会に対して激しく疎外感を持つ
者が居たならば、その中から「みんなには居ても自分のそばに
居てくれる人なんか誰もいやしない」と取ってしまう者が
出て来てもフシギではない。それはむしろ彼らの心の闇を深め
絶望感をムダに増長させる行為で、持たなくてもいい憎しみを
アジテイトしているのに等しくはないか。
人は本来淋しいものなんだ、どうしようもなく独りなんだ、
淋しいのはおまえだけじゃないぞと歌う方がよっぽど良心的だ。
もし本当に渇いた人にコトバを送りたいならば僕ならそう歌うだろう。
そこを基点に物事を考えれば、感じなくてもいい疎外感を
抱え込み悩む人間は減るように思う。
ならば独りで生きてゆけるのか?と問われても
答えは「NO」だ。でも、みんないつも誰かと
重なりあい繫がりあっていなくてはいけない、そうでなくては
誰からも愛されていないに等しいなんていうことはない。
そこが理解できていればそんな幼稚な脅迫観念からは開放されるはずだ。
世の中は、まるで淋しいことが罪であるかのように言う。
けど、淋しいことは決して悪いことだけではない。
人は独りで凹んだときにこそ、真の意味で「学ぶ」。
そしてその時にこそいい詩やいい曲やいい画、
素晴らしい作品をカラダからひねり出すことができる。
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現代には淋しさをごまかす道具がたくさん売られている。
どの商品もひとりぼっちは淋しいでしょうと謳って並んでいる。
携帯電話やゲームを駆使すれば
淋しい誰かとにわかに繫がり
淋しい自分と向き合わずに済む。
ああいう歌もごまかしツールのひとつに過ぎない。
しかし携帯メールで慣れ合い相手を呼び出したところで
えせソウルソングを聴いてその場「癒され」てみたところで
それはうつろな自己麻酔、本質の先送りでしかない。
決してそれで何かが埋まり、解決するようなことはない。
ただ、ものを生み出す意欲を鎮火させ
創造力と自律を失ってゆくだけだ。
怖がらずに孤独と向き合ってみよう。
ノドの渇きを癒すためにコップを満たしてみたところで
注いだものが砂では飲んでも癒えることなど決してないのだから。
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