2017.08.14

《FLAT HOUSE in Kyushu》 発刊のお知らせ

去る7月15日、FLAT HOUSEシリーズの新作《FLAT HOUSE LIFE in Kyushu》が書店に並びました。企画が生まれてから5年もの歳月が経ち、ようやっとのリリース。その間に転居が2回、暮らし方も随分変わりました。今見直すとこの5年の間のことがいろいろ思い起こされ、九州との二拠点生活にちょうどシンクロすることからもさながらクロニクルのような一冊となった感です。

ここで本書「はじめに」を一部リライトしたものを掲載します。

*


 さかのぼること今から5年前の2012年10月、編集プロダクションのFさんという男性からメールが届いた。某出版社が平屋の本を出したがっているので監修してくれないかという内容だった。ちょうど《FLAT HOUSE LIFE vol.2》の入稿が迫っていたので、それが終わったらお話伺いますと返信した。校了が終わった12月初旬、JR中央線/国立駅北口でFさんと出版社のKさん2名を買い替えたばかりのキャンパーに乗せた。Fさんは小柄でにこやかな男性だったが、袖口からちらりとトライヴァルのタトゥーを覗かせていた(後で総合格闘技をやっているということが判明)。Kさんは目鼻立ちのはっきりした色白の女性で全身真っ黒な服で固めていた。想像と全く違うキャラクターのお二人だったが、このイメージギャップというのも楽しいものである。

コンロでお茶を沸かしながらご依頼内容をおさらいし、著者として関わる方ことで手打ち。しかし他社から既刊と同じ内容で出すならばコンセプトを変えねばならない。そこでFさんから「地方の平屋事情というのはどうでしょう」という提案が出た。ちょうど西日本への転居も考え始めていたので、取材は住みながらじっくりできる。にわかにその案が現実味を帯びて来て、その方向でまとまった。その後福岡と東京の2拠点で生活することが決まり、かくして新刊は《FLAT HOUSE LIFE 九州版》に決定する。

とはいったものの、既刊に比肩するレベルの平屋がどの程度あるのかの確証もなく、そもそも取材にどのくらいの時間を要するのかなどなど皆目見当がつかないことだらけ。しかし、初めて住む九州はあらゆる点で「未知数」で、その分期待も大きかった。関東でも関西でもない独自の文化を築く九州には、予想もしないような面白い物件が必ずや待っているはずと、パースペクティブは暗くなかった。またその「未知数」に賭けることは九州で暮らすことへの強い動機付けにもなるし、転居後のライフワークになるだろう「古平屋探訪」にひとつミッションを与えてくれるものと大いに仰望した。


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かくして13年夏、二拠点生活を開始。在福中は住まいの周辺を極力探訪した。暮らしてみれば何ということはない、平屋は少なからずあった。九州でできた友人からの紹介や、読者からの情報によって見られた物件も。おかげで転居から4年の間に十数棟のFLAT HOUSEの取材を終わらせることができた。そればかりか今では空き平屋の改修や再生を仕事にするまでにも至っている。改めて九州の“手つかず加減”には瞠目するばかりだ。

地価が低いため持ち家が多いのも九州の特長だが、関東のFLAT HOUSER同様古い物をこよなく愛し大切に使うような住人たちばかりで、住処にもその精神が反映されていることはいわずもがなである。また今回特筆すべきはシリーズ初のセルフビルド平屋の登場だ。そして筆者が改修に関わった米軍ハウスのリノベート前後比較も初の試み。明るくて大らかな人柄の九州人が暮らすFLAT HOUSE全10棟をじっくりご堪能いただきたい。


というわけで、書店にお立ち寄りの際はぜひお手に取ってご覧になってみてください。
橙色のビタミンカラーのカバーに九州の白抜きが目印です。


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2017.07.08

2017/7月イベントのお知らせ

春〜初夏は新刊の執筆と追取材で家に籠っていることがほとんどだった。
今年の九州はからっとした晴天が多く、良い季節に屋内にいた感があり
短い人生のウチの少ない好天日を棒に振ったような気持ちになっていた。

しかし、書いたモノが本となってでき上がって来るとそんな気持ちも
キレイに反転、また秋があるよと前向きになる。

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というわけで新刊『FLAT HOUSE LIFE in Kyusyu』が今月中旬リリース。
それに伴って今月はトークイベントが関東/九州で3本開催致します。

■7月8日(土)
東京都立川市/ガレリアサローネ

【FLAT HOUSE meeting】第4章《2拠点平屋交互生活のススメ》
この会場は拙著『HOME SHOP style』掲載の《ヨリミチ》の店主が結婚を機にスピンアウトして始めたカフェで、FLAT HOUSE meetingを一番開催しているホームグラウンド的な場所。今回は初めて話すエピソードながら、個人的には今もっとも論じたいアジェンダです。具体的な話と動画が他章より多く、かなり見応え聴き応えある回となる予感です。

会場の詳細はこちら ↓
http://bit.ly/2uU7U1S

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■7月22日(土)
神奈川県藤沢市/湘南蔦屋 T-site

【FLAT HOUSE meeting】第1章+FLAT HOUSE LIFE in Kyushu
数少なかった神奈川エリア且つ初の湘南開催。以前からお誘いいただいていたのになかなか叶わなかった会場でのトークです。ここでは第1章に九州FLAT HOUSEの動画を絡めてお話しする予定。また、施設内には原画やこれまで手がけたプロダクトの展示もしていますので併せてどうぞ。

会場の詳細はこちら↓
http://real.tsite.jp/shonan/event/2017/06/-flat-house-meeting.html

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■7月30日(日)
福岡県福岡市/旧大名小学校:スタートアップカフェ・イベントスペース

【九州大学ソーシャルアートラボ公開講座】
アートを読みかえる~フラットとリアルの思考~

「社会を読みかえる」をテーマに、アートを「世界の見え方や関係性を変える仕掛け」と捉えアートと社会の関係性をあらためて問い直す、九州大学ソーシャルアートラボ公開講座の第2回目に登壇します。ここも初の会場で、天神博多のど真ん中。ちょっと難しく感じられるかもしれませんが、FLAT HOUSEでの暮らし方をアートとして捉え直すという面白い試みで、僕もどんなセッションになるかとても楽しみです。モデレーターは九州大学大学院芸術工学研究院教授、作曲家の藤枝守氏。エディターの小崎哲哉氏もご登壇します。

会場の詳細はこちら↓
http://www.sal.design.kyushu-u.ac.jp/h29_lecture.html

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立川ガレリアサローネは当日のご案内になってしまいましたが、予定がキャンセルになった、偶然近くに行く用があるなどという方はぜひお立ち寄りください。ご来場をお待ちしております〜


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2017.04.20

《FLAT HOUSE LIFE》復刊のお知らせ

:

2009年に上梓しました『FLAT HOUSE LIFE 』、そして12年に上梓しました『FLAT HOUSE LIFE vol.2』は、出版元の事実上の消滅に伴い4年もの間絶版状態にありました。その後幾度となく復刊の話も浮上したものの寸でのところで立消える、を繰り返して来た経緯です。

昨夏、トゥーヴァージンズというあまり耳にしたことのない出版社から復刊のオファーが舞い込みました。それもそのはず、書籍販売の営業アシストをメインの事業とする会社で、出版部門をここ最近立ち上げたといういわば若い会社だったのです。

僕の場合、インタビューや取材の話が来た際は「先ず友達になりましょう」と伝えており、今回も同様の返答をしました。後日2名の男性編集者がやって来たのですが、これまた若い。まあどうせまた同様のことになるのだろう、過度な期待はせずにお手並み拝見とタカをくくっていたところ、予想外にきちんとした青写真と行程案を用意して来てくれ「おや、いつもと違うな」と感心。これまでは編集者が上司の決裁を差し置いて先ずこちらに打診というパターンが多かったので、彼らの“既に社内コンセンサスが取れて来ている感”には意外でした。

2冊を合本にすること、サイズを大きくすることことなどこちらの意向が丸々受け容れられ、その後は彼らの情熱と行動力であれよあれよという間に編集作業諸々も終了、気がつけば校正紙の束に赤ペンでチェックを入れる日が来ていたという経緯。この期間の彼らの集中力は見事なものでしたが、それもそのはずふたりともがFLAT HOUSERだったのです。それまでのことがあるとはいえ彼らを見くびっていた自分を反省しましたが、これまでのどの社とも復刊に対する熱量と取り組み姿勢が違っていたのはそういうことだったのかと腑に落ちました。

斯くして今春『FLAT HOUSE LIFE 』と『FLAT HOUSE LIFE vol.2』は30ページを加えた400ページとなって再編集され、版型もB5にサイズアップし『FLAT HOUSE LIFE 1+2』とタイトルも改にめでたくリバース致しました。これもひとえに熱きFLAT HOUSER編集者たちのおかげと感謝しております。諦めずにいれば必ずや手を差し伸べてくれる理解者が現れるのだと確信した次第です。


それにしても改めて本を見直すとその数に愕然、判っているだけでも既に半数近くが解体されてしまっていました。特にこの2~3年再開発のピッチがヒステリックに急加速しているように映ります。税制の「改悪」と東京五輪の「開き直り開発」の煽りが首都圏を軸に全国波及しているのかもしれません。今回あたかも辞典のような姿にトランスフォームしたこのまことにクレイジーな一冊が、全国の古家、古民家、米軍ハウスや文化住宅を愛好する人々の念を改めてパイルアップし、新しい世代にその熱が反映してくれたらと願っています。

                                    
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2017.03.11

3月11日という一日

:

3月11日から15日にかけての数日間には
やはり特別な念がある。

もちろん喜ばしいはずもなく
ああ、今年もまた律儀にも来るのか、という感じだ。
この感覚はおそらく一生消えないのだろう。
戦争を経験した人たちが8月15日を忘れられないのと同様に。

昨年は震災からちょうど5年という節目?だったので
自分が被災した時のことを時系列で記しておこうと思い
少しずつ書いていたのだけど、
すっかり1年経ち6年目になってしまった。
また1年経ってしまわないよう
ここでアップしておこうと思う。

******************


思い起こしてみる。
あの日、2011年3月11日は
神奈川県大和市にある米軍ハウスを仲間と
シェアして始めたFLAT HOUSE cafeにいた。
オープンして2ヶ月、某カフェチェーンの社長が
店が見てみたいと来店、ついでに僕とも話したいというので
昼前から当時住んでいた府中市からクルマで訪れていた。

カフェ奥の一室を店舗にすべく一緒にシェアしていた
イラストレーターの友人Aさんと、社長を連れて来た
Tさんの4人で個室で昼食をとりながら歓談した。
ご年配のこの社長、ジェントルな外見とは裏腹に
かなりお話し好きな御仁。
自身の会社の四方山話から始まって
今後の商売展開についてなど一瀉千里に話した。

こんなふうに米軍ハウスの店舗も出したいやら
ガソリンスタンドの空き物件をカフェにしたいやら
これからは郊外店舗の時代ですと某チェーン店を例に
挙げて解説したりもし、気がつけば以下3名は
完全なオーディエンスの体。

そのあたりまでは良かったのだが、
だんだん話題はあらぬ方向へと脱線。
知り合いに御神輿を作っている職人が居るんですが
面白い人でね(どんなふうに面白いかの説明はナシ)
ひとつ2000万なんですがこれが売れないそうで
アラタさん売ってみませんか、10%差し上げますよ、
などとまったく今回の訪店に関係ない話にまで及び始めた。


だんだん内容がアタマに入らなくなって来たのに
真正面に座られてしまっているため完全ロックオン。
感想を述べて流れを変えようにも「ええ」の一言で
片付けられ、再び自分のことだけを延々話し続ける。
まったく会話が成立せず、申し訳ないが
そろそろ逃げ出したくなって来ていた。

:

《揺れが来た!》

突然、社長の顔と背後の壁や天井が歪み始めた。
まるで船上にいるかのような気分になり
長時間の話に三半規管がおかしくなったのかと疑った。
ペンダントライトの大きな振幅と女性たちの悲鳴が
こちらのせいではないことを教えてくれた。

AさんTさんがテーブル下に潜り込み始めたが
社長は身体を揺らしながらまだモノローグを続けている。
そんな彼を尻目に部屋を飛び出て歪んで開かなくなる前にと
屋内のドアを開けて廻った。

恐る恐る外に出ると、大きく傾ぐ電柱にたなびく電線が眼に入った。
近所の奥さんらしき数人が玄関先にボーッと立ち尽くして
それを見ていた。出て来たこちらに気付くとひとりが
揺れる電柱をだまって指差した。

それに相づちを打ちつつそっと立ってみると、揺れている。
「すごいね!外に出ても揺れを感じるよ」
といいながら戻ると、店内はまだ船のよう。
お客さんを含めスタッフ全員心配顔。
着席する気になれず立っていると少し酔いを感じて来た。
3人の様子が気になり個室に戻ると、地震のようですね、と
ようやく社長がオンタイムな話題を口にしてくれた。

店内にはテレビもラジオも無かったので
情報がまったく入らない。相当大きい地震のようだが
震源はどこなんだろうと話していると、だれのも
繋がらなかったのに僕の携帯電話だけが突如鳴り出した。

あとで判ったことだが、キャリアによってかかり方に
差があったようで、僕のだけが繋がったらしい。
その日は本業の出勤で会社にいたMさんからで
震源は東北沖だということや
都心で何が起こっているのか教えてくれた。
日頃スローモーに話す彼女がかなり慌てている。


その時はまだ津波の話はなかったように思う。
が、神奈川でこの揺れなのだから震源地ではスゴい被害が
あったのではという予測はついた。これはこれから大変な時間を
過ごさなくてはならなくなるかもしれないなと予感した。

クルマで来ていた社長は特に慌てるでもなく
Tさんを乗せて自宅のある都心方面へ立ち去った。
それを見届け、現金を下ろしておこうとサイフを取るや
最寄り駅の小田急線の中央林間駅まで自転車を走らせた。

電車が停まっているだろうことはすぐ判った。
到着時はぽつりぽつりとしか居なかった老若男女が
5分も経たないうちに改札口付近にわっと溢れ返ったからだ。
不思議なのは誰ひとりとして歩き出そうとせず
改札ホールに佇んでひたすら携帯電話をいじっていたこと。
全員がフラッシュモブでもしているかのような異様な光景だった。

:


《大災害の予感》

CDから現金を多めに引き出し、スーパーに寄って食料品を
しこたま買った。多分、一両日中にお金も引き出せなくなり
店から品物が消えるだろうと予感したからだ。

が、その時はまだ客たちに何の切迫感もなく、
普段通りに買い物に来た感じののんびりとした空気だった。
自分だけがあたふたとカゴに食品を詰めているということに
激しく違和感を覚えたことを憶えている。

首都圏の交通がほぼ全域で麻痺していた事がわかったため、
それでなくても混む国道16号線のことを考えて
帰宅は深夜まで待つことにした。
既に帰宅を諦めていた台東区に住むAさんを
我が家のゲストルームに泊めることにして22時過ぎに出発。

カフェを出て1分もしない内に渋滞に捕まる。
到底詰まるはずのない道に真っ赤なテールランプの
行列が見えなくなるまで延びている。
ここからこんな調子じゃ本番勝負の
16号線はどんなことになっているやら。

正攻法での帰宅は諦めてカーナビの画面を最大限に拡大し
目を凝らしながらあみだくじをやるように住宅街の小路を
くねくねと低速度で北上してゆく作戦に方針転換。
界隈の地理に明るそうなハンドルさばきの
タクシーが僕らの前をしばらく走った。

16号線を横切って町田街道に入ると
ぐっと空いて走り易くなった。
が、町田市から八王子市に入るあたりで
おかしな光景が目に飛び込んで来た。
店内が真っ暗なセブン・イレブンだ。

気付くと街灯、信号さえも消えている。
街中を走っているはずなのに、山道か森の中を
走っているかのようだった。
「そうか、大規模停電してるんだ!」
これが渋滞の大きな原因なのだなとその時は思った。

本当はアクセル全開で走り抜けて行きたかったが
再び速度を落として走行した。
少しずつ眼が暗さに慣れて来て
交差点の手前に来ていることが判ると、
いきなり笛の音が耳に飛び込んで来た。

すると暗闇の中で懸命に手を
上げ下げする人のシルエットを発見。
ヘッドライトが手旗で必死に交通整理をしている
警察官の姿を浮かび上がらせた。
おそらく人員が不足していたのだろう、
ひとりだけで公務を執行していた記憶。

クルマは大人しく従っていて何事もないように
見えたが、24時間営業のコンビニの閉店と
真っ暗闇にうごめくひとりの警官の影で
充分非常事態の様相だった。

:

《予測を超えた現実》

家に到着したときはすっかり日をまたいで
午前1時を廻っていた。いつもの倍以上の時間が
かかっての帰宅だったが、それでも相当運が良かった
ということがMさんとの電話で判明。
昼間に出た社長は晴海の自宅に帰るまで気の毒にも
8時間も高速道路に乗っけられたままだったそうだ。

先ず気分を落ち着かせるために湯を沸かしお茶の準備をした。
昼食から何も口にしていなかったので
帰り道すがら近隣のコンビニで買っておいた軽食を拡げた。

お茶を入れ、食べ物を少し口に入れながら
いったい世の中はどうなっているんだとテレビを点けた。

阿鼻叫喚。
おそらく昼間から繰り返し流れているんだろうと
思しき映像は、黒い水が家やクルマやあらゆるものを
抱き込むように田畑の上を広がり、
画面をどんどんドス黒く塗り込めてゆく光景。
空撮する報道記者の声の調子がまるで
ディザスタ・ムービーを観ているようだった。

「えーーーっ!?」と二人で同時に低い声を上げた。
昼間なんとなく予測した“とんでもないこと”は
予想を遥かに凌駕していたという驚きが
こんな深夜になって襲って来たという感じだった。
どっと疲れが出た。

と同時に、この真っ黒な波が今後どんなふうに、
どんなかたちで自分たちに影響を及ぼして来るのだろうか
という漠然とした不安の粒がぽつんと生まれた。

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《覚悟》

1995年の阪神淡路大震災のときは
ちょうど風邪で会社を休んでいた。
電話を切って一旦寝て、医者に行く前にテレビを点けたら
映っていたのが高速道路が倒れている空撮映像だった。

あの画を見たときの衝撃を思い出したが、
今回はカタストロフがオンタイムで進む恐怖が
加味されていた。阪神淡路のときはどこか
他人事だった憶えだが、今回はそうはいかない。
今座っている場所からたかだか250km程度の場所で
つい数時間前に起きた現実と今向き合っているのだ。

そう、“向き合う”。
今後この数日後に起きるあの忌まわしい
「事件」(事故ではなく)と僕らは
対峙しなくてはならなかった。
このときはまだその覚悟はおろか
あの悪夢と「向き合う」羽目になる
ことすら予想できる由もなかった。

この夜がノンフィクションの静かなる
ディザスタ・ムービーのイントロだったのである。


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******************


遠く離れているはずの東京でさえ被災した日は
半ばパニック状態だった。

パニック状態とは映画のような稲麻竹葦に人が逃げ惑う
状態ばかりを指すのではではなく、大部分においては
日常に混じりながら静かにやって来るもので
時に長期に渡る場合もあるということを
あの震災は教えてくれた。


このあと計画停電やデモの参加などを経験し、
被災時住んでいたハウスの立ち退きから借り住まいを経て
現在の九州との二拠点生活に至るわけだが、
個人的にこの6年は「振り廻された」という感が否めない。

しかし、それをバネにいくつかのことを好機へと
換えることもできたと思う。
九州に来られたこともそのひとつだろう。

人は気の持ちようだ、などとは今回は言わない。
こちらがいくら気を張り踏ん張っても
どうにも敵わないということがあるからだ。
不幸の中にいたが別の意味で運が良かった、
ということだろう。
それに尽きたと今は解釈している。


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2017.03.10

湯の街のモンマルトル


*

昭和漫画家の巨人たち若き日の梁山泊だった豊島区のトキワ荘を取り壊すニュースが走った時、僕はまだ十代だった。そんなガキでも「なんというもったいないことを!!」とかなり激昂したことを覚えている。これを残しておけばゆくゆくは観光資源(というコトバは使わなかったと思うが)となるはず、それを目先のカネに絆(ほだ)されるとは大馬鹿モノ揃いだなというような話をクラスの友人とした記憶もある。

それから30余年経ち、彼の荘のレプリカを作って観光の呼び水にしようという計画があるようだが、それ見たことかと失笑した。そんなことなら最初から解体を許したりせずに、彼ら巨匠漫画家たちで散々儲けさせてもらった出版社が買い上げて守れば良かったのだ。覆水盆に返らずの極みといってしまえば簡単だが、先見の明とセンスのない者が決定権を持つ社会は本当に怖いと感じる。

また東京では「新・トキワ荘計画」なるものが始まっているらしい。しかし見たらマンションに若者を詰め込んでいて至極ガッカリした。まあそこに気持ちが向いて来たことはいいんだが、そうじゃないんだよなあ。あまりお膳立てし過ぎるのもヨロシくないし、自然発生的に集まらないといけないんだが、なによりワンルームマンションじゃないだろうに。中には木造戸建てもあるようだが、いずれも取って付けた感じ。住めりゃいいんでしょといった体。

大分県の別府の街にもトキワ荘を連想させる物件がある。《清島アパート》がそれだ。美術家としての成功・自立を目指す人々&目指さずとも活動を続ける人々が集う2階建ての木造住宅。ルックスから言えばこちらの方がよっぽど「新・トキワ荘」である。NPOが関わっているようなので純然と自然発生的に集まったというワケでもなさそうだが、かといって誰かが「こいつは後々話題になってカネに繋がる」なんていってあざとく集めたわけでもないので、募集などはかけたにせよ限りなく自然に聚合したように思える。

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なにより、戦後すぐに建った木造集合住宅という部分が素晴らしい。東京都心ではこんな物件をこんなふうに使わせてくれる大家は先ずいないだろう。その前にすでに物件自体がない。首都圏ではバブル期にこの手の住宅の大半が解体消滅、奇跡的に残ったものでも税制が変わって絶賛取り壊し中。あるとしたら撮影スタジオの中くらいだろう。改めて、何てことだ!と叫びたくなる。

おおむね「汚い・危ない・カネにならない」の「3ない」が古家の解体の理由だったりするが、木造古家が住む人に与える好効果を世間はまだよく判っていない。大借金して買うくせに家を単なる“シェル=殻”と軽んじる空気が世の中にはまだまだ強いのである。

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ナントカ遺産みたいにオーソライズされるとたちまち過剰と思えるほど大事にし出すのに、値札やキャプションが付かないものに対しては本当に冷めたい。こういった古家物件こそ町並み形成には重要なセットなのに、その辺の審美眼がウチの国民には絶望的に無い。これは「他人に言われるとそう思えなくもないが、自分では善し悪しを決められない」という国民癖のような性質が起因している。自分で決められないというのは、価値判断の幅が狭いということで、多様なモノを見て育っていないということの現れだと僕は考えている。自分で勝手に考えるな、こっちで決めたことを考えればいいのだという教育の潜在指針の賜物でもあるだろう。

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この呪縛は個々人が大人になってから自らで解くしかない。それにはいろいろな土地へ行き、さまざまな職業のいろいろな価値観を持つ多様な人々と出会って彼らの暮らしを垣間見せてもらうことだ。小学校から会社を辞めるまで続いた集団社会時代を脱け、古い住宅に住んで絵や本を書いたりしているうちに、確信を持った。

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そして街興しにありがちなアートジャック的カスタマイズがされていないところもこのアパートに好感が持てるポイントだ。美術家・芸術家が住んでいるから住居にまで何かを施す、という行為はジツに無粋なセンス。モンマルトルのアトリエ跡に壁画やインスタレーションがあるだろうか。名作を残した画家はそんなところで主張などはしない。彼らがそこで静かに作品を作っているという事実があれば良いのである。

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2017.01.07

もうなのかなのか


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もう七日なのか

この言葉も例年吐いているような気がするが、大晦日からもう1週間が経つ。年をまたぐと1週間前のことが実際よりももっと以前のことのような感覚に陥るというのが不思議だ。例えばクリスマスが2週間前ではなく、もっと過去にあった感じがしないだろうか。

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それはもしかすると太陽の光の加減が年をまたぐと事実ぐっと変わるのかもしれない。と、九州に来てから強く思うようになった。日本古来の旧暦=太陰暦で測らなければつじつまが合わないようにも思えるが、福岡県福津市の宮司浜のこの季節の夕暮れを見ていると、新暦=太陽歴でもこの仮設は不思議と当てはまるのである。

ここの海岸の入り口には鳥居があり、それと1kmほど内陸に入ったところにある宮司嶽神社の鳥居とが参道を介して一直線に結ばれていて、年に2回その鳥居の中にスッポリと嵌るように落ちる夕陽が拝める。それを待たずしてもこの時期のここの日没は神々しい。やはり12月の雰囲気と今月とではがらりと変わる印象が僕にはある。

その昔は交易の要衝で、さまざまなことがこの界隈を中心に決められたのではないかと推測される九州北部は尚更その感があるのだろうか。大晦日と元日のたった数時間の間に「旧年」と「新年」があるこの時期は、「時間の経過」の何たるかを教えてくれているようにも思える。大切に生きろなのか、早く成し遂げろなのか、それとも諸行無常、なのか。

生命がある、ということのほかに動物も昆虫も植物も平等に晒されているものがこの「時間の経過」だ。この惑星に乗っかっている限り、みな同じ速さの時間経過の中で息をし何かをしている。と、考えると自分以外もソコハカとなく愛おしく思えて来るし、幾ばくかの責任も感じるし、やり切れなさも感じる。少なくともオマエは生きている価値がないとかあるとかの議論が浅く愚かに聴こえるようになる。

今年はどう生きるか、いつもは重要なことをはっきりさせずにヘラヘラしている僕らもこの時くらいは真顔で考えても良いと思うがどうだろう。


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2016.11.21

関東より恐るべし意匠家集団来襲!

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先週末、仕事はもとより初著&2冊目のリリースでもお世話になった&なっている細山田デザイン事務所ご一行男女12名様が二泊三日の“研修旅行”でご来福。


これまではずっと海外に出かけていたという同事務所の年イチ恒例行脚、今年は初の国内とのこと。おそらくは「まあウワサには聞いていたけれど…」程度の期待値で来られたみなさん、福岡の食べ物の美味さや新鮮さ、量の多さや安さ、古いモノが残る街並と活気、そして大らかな優しき人々に触れて予想を大きく上回り、ノックアウトされっ放しだったご様子。帰宿後もうなされるように「スゴいなあ〜」を連発。


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しかし翌日は同事務所の恐るべき「本領」を目の当たりにすることとなる。
まず小倉の旦過市場でおでんや刺身をアテに角打ちなどで3軒ハシゴした後、カレーをたいらげて(もう既にこれが信じられない)博多に移動。今泉のビストロ風焼鳥店で大円団のあと何もなかったかのように餃子専門店へ場所を変えて再乾杯、日付が変わる頃にはイイ感じだね〜と行きしなに眺めていた赤提灯に戻って天ぷらやら胡麻サバやらをアテに一献を傾け、ラーメン&餃子でシメて早朝帰宿という怒濤のスケジュール(ワタクシは2軒目で敢えなくリタイア)そして僅か3時間足らずの睡眠で活動再開…。


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マガジンハウスのrelaxやPOPEYE編集部で永年ADとして辣腕を振るって来た細山田光宣氏率いるこの会社、生き馬の眼を抜く首都圏でエディトリアル(書籍)デザインの仕事の多くを手掛けており、書店で本を開けば必ず数冊はあたるという業界では知らぬ者はいない存在。初著リリースのときもデザインは細山田氏に頼もうかなと言った瞬間、寡黙な担当編集者が「ええッ!頼めるんですか!?」と舞い上がったほど。

今回は社員の半数ほどが参加したに過ぎなかったそうだが、そのパワフルかつハンパなき遊びっぷりに結果こちらが瞠目。彼の事務所の排気量の高さを見せつけられた思い。そのタフさももちろんだが、食べっぷりだけではなく食から繋がる文化への細かな興味への集中力が並々ならぬ、ということ。さすがは年間に数百冊の本をデザインする意匠家集団だけあるなあ〜とヒドく感心。最近は朝食を抜く生活を続けていた僕にとって、尚更彼らのヴォルテージにはあてられてしまった。


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「いやあ〜〜福岡スゴい!!」と圧倒されつつ帰路についたご一行、前夜のハシゴに継ぐハシゴにも関わらず、最終便の飛行機搭乗前にも天神にて乾杯したとのこと。本当にスゴいのはどうやらあなたたちのようですよ。

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(食事が終わった帰宿後も再び酒と肴で歓談を始める猛者たち。スゴい…)

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2016.10.12

果てしない遊びのマゾヒズム

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一過性の出来事についてはなるべく触れないようにしているのだが、今夏例のモンスターを捕獲するスマフォアプリが全世界的に流行した機会を借り、一度したいと思っていたゲームの話を。

80年代中期以降、家庭に上がり込んだことによってゲームはすっかり「遊び」の範疇を超えてしまった。30分程度で終わっていたプレイ時間は長期に及び、途中保存して後日また再開できるといういうなれば「完全生活密着型」へと変異してその性質を大きく変えた。本来はこの30分程度の中で完結する潔さに「遊び」としての清涼感があったのだが、その不文律を企業側が破壊した体だ。それによってこの業界は肥大できたのだろうが、プレイヤーは人生の大半の時間を彼らに捧げることとなった。

僕自身も中高生の時分はアーケードゲームに夢中で、日中に行かれなければ深夜にも家を抜出してゲームセンターへ脚を運ぶほどだった。が、ファミコンへは足を踏み入れなかった。それまで主流だったLSIや液晶のポータブルゲームと違い、ゲームセンターに肉迫するようなマシンを自室なんかに入れたら一日中やるに決まっていると踏んだからである。おそらく日常の大半をそいつに持ってかれるだろうことは十代のガキにも容易に悟れ、自分にとっての「次なる何か」の到来を大きく妨げるに違いないということもなんとなく予測できた。


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あれから30余年、僕の警戒していたことはほぼ当たった。いい具合にゲームと付き合っている人もいるにはいるのだろうが、おそらく少数派。僕も社会人になって一度だけ同僚からスーパーファミコンを借りてみたことがあったが、帰宅するやいなやお茶を飲む感覚で始めるというルーティンにスッポリと陥り、みんながなぜトリコになるのか、そして自分にもまだまだゲームにハマる素養が残っているということが判ってしまい、即返却した経験がある。セカンドライフ(課金制が介在するインターネットゲーム)に没頭するあまり、仕事から帰宅するやコンビニ弁当とビールを持って別々に部屋に閉じこもってプレイするという夫婦を以前ドキュメンタリー番組で観た時、そりゃあそうなるだろうなと思った。好きだったゲームが、人間の「中毒性」に寄る巨大産業へと結果変遷してしまったのかと思うと至極残念だ。


また、今のゲームにはあまりにも画面のリアルさ以外のサムシングが感じられない。黎明期のゲームのグラフィックの洒脱さや面白さ、機械本体のデザインの美しさ(70年代のmatel社やbambino社のポータブルゲームのシェルは最高にカッコイイ!)など、インダストリアルプロダクトとして評価する余地が多分にあった。しかし、80年代半ばに登場したN堂のファミコンはそれらをまったく軽視したパッケージだった。どう見ても美しいとは思えないデザイン、価格を抑えるため一番安価な樹脂の登用の結果だったという赤とベージュの配色。僕があれを家に入れなかったのは、手元に置きたいと思えなかったからかもしれない。

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70年代後半に登場したbambino社のフットボールゲームはジオメトリックなデザインが秀逸。翼のような部分はスピーカーになっており、どことなくスタジアムを表現しているような感じがするもスターウォーズに出て来そうでもある。とにかく斬新なフォルムだ。

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同じくbambino社のボクシングゲームは左右対戦型。初期のポータブルゲーム機はこの鮮やかなブルーグリーンのLEDでヴィジュアルが作られていた。まろやかなブラウンのボディに鶯色のボタンというカラーリングはインテリアにも充分溶け込む。

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こちらはやはり70年代後半に登場したMatel社のフットボールゲーム。本体のみならずケースのイラスト、ロゴを含めたアートディレクションが素晴らしい。パッケージコンセプトがとてもしっかり練られており、単なる玩具ではなく工業製品としても高く評価できる。以上のゲームはいずれも10〜20分程度のプレイで終わる。


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初期ホームアーケード型の雄Vectrex社のカートリッジ式ゲームはやはり70年代後期の製品。ビット数の制約がある中でのスペースシップの表現は今見るとベリー・クール。ゲームヴィジュアルはこのくらいのシンプルさがカッコイイ。


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ヴィジュアルもアニメに寄ったものが多い印象で多様性が感じられない。以前は気鋭の海外イラストレーターにキャラクターデザインを手掛けさせたりして、業界外の血を入れることに注力していた感があったが、昨今はそんな話も聞かなくなった。そんなことを作り手も受け手もまったく視野から外してしまった様子で、売れれば内輪ウケでも全然OKと開き直ったカンジが強くする。ただただ、予定調和な作り手とそれを待つ特定の消費者との間で莫大な金銭と商品配達がやり取りされる。それが延々と続いているようにしか見えない。

今回のアプリがプレイヤーをドアの外にひっぱり出したことはひとつエポックかもしれないが、結局は「またもや巨大企業にみんなで同じことをさせられている私たち」であり、それを指摘する者が相変わらず“やる側”から出て来ないことにため息が漏れる。この重度ともいえる「なれ合い感」がこれらゲームというものを文化やアートの域まで到達させない大きな要因なのではないかと以前から思っていた。おびただしい数の愛好家がいるというのに。

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業界内の違和感やあり方について唱える者が出て来て、彼らが何か別のジャンルで「ゲーム出身者」というスタンスからモノを作り始めたならば、「ゲームは文化でありアートだった」と見直す向きも出て来ようが、その好例は未だ耳に届かない。音楽も映像も介在するゲームは総合アートたり得る可能性を持っているのに、そこに踏み入ろうとする者が一向に現れないのはおそらく「いかに消費者をトリコにするか」という企業的イシューが強過ぎるためでもあり、それを受け手が甘受しているからではないか。

以前、子供の通う保育園にピカチューの着ぐるみが現れて園児たちにカードを配りだしたという話を友人から聴いた。そのカードはどうやらゲームに関わるもので、それがあれば次のステップに行かれるといったようなインセンティヴが付いていたそう。そこまでやるのか、えげつないと怒りを露にしていた友人は「親の主義や経済状態からゲーム機を持ってない子だっているはずだ」と。しかし彼らはそんな親子こそをターゲットにしているように思える。良識を持ってすれば、そんなことをするなら子供はしなくてもいい「格差」を感じなくてはならなくなるということくらいはわかるはずだ。許す保育園の運営者も運営者だが、そんな“容赦ない立派な企業人”たちがこの業界の主軸にも座っているということを図らずも感じる。


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総じて言えば、作り手も受け手も「停滞」を好む世界の住人なのである。そして「遊ぶ」のではなく「遊ばされる」如いては「遊ばれる」のが好きなドMな人々の方がこの世には圧倒的に多い。売れているうちはいつまでも売り続けたい企業と、いつまでも遊ばせてもらいたい消費者の利害が完全合致したということなのだ。

登場後かれこれ30年をも経るゲームキャラクターの作り手ならば「ポケットモンスターは素晴らしかっただろう?でももうここまでだ。始まりがあれば終わりがある。さあみんな次へ行こう」と完結させることが本来は望ましいと思う。良いもの、美しいものには終わりがキチンとある。その終焉は作った者が決めるものだし、受け手にもそれを伝えるべきだ。

しかし、利益最優先のマゾ社会ではそうならない。この相互の強度依存は「商品としての延命」が目的なだけの蠕動(ぜんどう)運動を今後も延々と続けてゆくだけだろう。果てしないプレイ時間のゲームのように大勢のマゾヒスティックな人々を巻き込みながら。ジツに無粋、いや不気味だ。


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2016.08.02

GODZZILAではない、ゴジラだ!

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先夜、近所の仲間と夕食がてら人里離れたシネコンへ行って『シン・ゴジラ』をさくっと鑑賞。同行者1名は同い年、1名は80年代生まれでゴジラ体験ほぼナシ。前者は途中から前席背もたれに乗り出して鑑賞、後者はうたた寝。彼らの真ん中の席にいた自分にとってこの温度差が先ず面白かった。

というのも両者の感覚が判ったからでもある。とにかく政府官僚をはじめ自衛隊やら学者やら「国体側」の侃々諤々「しゃべるシーン」が長い。しかも異常なほど早口。東京出身でも九州でのユルやか生活を送っている自分の耳にはすでにキツい。これをこのまま海外で字幕上映したら「に、日本人て…」と思われるだろう(笑)なので非ゴジラ世代にとっては尚更眠くもなるだろうなこれは、と思えた。

そして乗り出して観る方の気持ちも。常にアラや矛盾をチェックしながら観る(SFは特に)クセが抜けない自分でも「おお!」と引き込まれるシーンが多々。SF映画はいわずもがなリアリティがキモであるが、その舞台にこのグチャグチャとビルが乱立したした現在の首都をよくぞ選んだと感心(旧作シリーズは暴れるときは山奥に引っ込むパターンが多かったからね)。

例えば電車がゴジラに投擲されて着地し破壊されるシーン。客車本体がまずオフセット衝突で崩れ、分離したシャーシーだけがガーっと道路を走ってゆくのだが、よく考えられている。こういう物理的な予測をすべてのシーンでしなくてはいけない。ビルはこう崩れるはず、橋梁はこう切れるはずと微に入り細に穿って忖度しなくてはいけない。本来はモンスターが暴れ廻るところよりもむしろそちらを丁寧に描かなくてはいけなかったこのテの映画は、随分とその部分をサボって来た。なのでご都合主義の着ぐるみコドモ映画と揶揄されて来たのである。そこをこの作品ではキチンと行っている。エヴァでその辺りが高く評価された庵野氏とその意を汲んだスタッフの素晴らしい仕事だ。

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終わってみればこれは怪獣映画ではあるもののその実は社会ドラマだなと。震災やゲンパツの事を連想させるシーンが多々あり、当然ダイレクトに「それ」の表現もされている。それもそのはず、昭和29年に公開された「ゴジラ」の初作は諸説紛々あれど反核の意義を強く下地に絡めた作品だった。原爆を2発も投下されたにも拘らず、おかまいなしにガンガン核開発を進める米国に対して何の口出しもできない(というより喜んで乗っかっていたフシさえあり)日本国政府に切歯扼腕していた円谷英二の渾身ハイキックだったのではなかったか。だからゴジラは放射能を吐き国会議事堂に迫ったのだ。

震災がありゲンパツが爆発しそれでも再稼動し、反動主義に走る政権。時代背景が重なる、というより60年以上経っても何も変わっていない状況に激怒した円谷氏の亡霊が庵野氏に憑依(ひょうい)し、この映画をもう一度作らせたのかもしれない。

(でも石原さとみの役は必要だったのかなあ 笑)


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2016.07.06

友、遠方より来たれり/chocolat&akitoとMattson2

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九州にいると、東京ではいつでも会えるからとどんどん疎遠になってしまっていたような友人・親類と逆に会えたりする。先日も東京から旧友であるミュージシャンの《chocolat&akito》の片寄夫妻が遊びに来てくれた。新譜『CHOCOLA&AKITO MEETS THE MATTSON 2』でコラボレーションしたカリフォルニアのサーフ・インスト・デュオ《Mattoson2》のマトソン兄弟(一卵性双生児!)とのプロモーションツアーで来福の折に4人で寄ってくれたという運び。

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片寄明人くんと知り合ったのは80年代の真ん中。僕がまだバンドをやっていた頃、ライブハウス『新宿JAM』の月イチイベント《March Of The Mods》に出演した夜に対バンだったコレクターズの前身であるThe Bikeを観に来た彼が、当時よくカバーしていたElvis Costelloの話をしに楽屋へやって来たのが最初だったと思う。

ひょろっとした長身に栗色のスパイキーヘア、ジャストコンシャスでこざっぱりした三つボタンスーツに黄色っぽいセルフレイムの眼鏡を合わせ、ニカッと笑った笑顔が印象的な童顔の少年だった。「僕もCostello大好きなんですよ!」といって彼はその後もちょくちょくライブに足を運んでくれ、その都度楽屋に来てはコレクションのレア盤(大抵7インチ)なんぞを持参。こちらが「スゴいなあ〜」「持ってないなあ〜」と悔しそうにすると屈託なく破顔一笑していたのを覚えている。彼はまだ十代だったはず。

数年後、仕事でいた岡山から帰省した際に行った下北沢のバーでばったり会った。メッシュキャップに革ジャンを羽織り足下はエンジニアブーツ、レザーのウォレットがデニムのヒップポケットからはみ出していた。随分印象が変わっていたがあの「ニカッ」は相変わらず。今にして思えばそのとき「僕、バンドを始めたんですよ」と笑顔で話してくれたのが、今日まで続く彼のキャリアを指し示す第一声だったということになる。

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その後、メキメキと頭角を現し80年代後半には《Rotten Hats》を結成。よく僕の企画のライブにも出てくれたが、もうやっていることのレベルが段違い、メンバーもよくここまで手練を集めたなあと感心する面々だった(全員現在もミュージシャンとして活躍していることからも判る)。ほどなくしてメジャーレーベルにスッと連れて行かれてしまった。屈託のない我郎だったはずが、見る見るうちに成長しすーっと追い抜かれてしまったという感だったが、今もキチンと音楽活動を続けている姿を見ればそれも当然だったのだと再認識できる。やはり天賦の才があったというか、情熱の量が違ったのだなあと。

昼過ぎに、奥さまでありユニットのパートナーであるショコラちゃん、そしてマトソン兄弟と共に我が家に到着。先ずは5人で自転車でポタリングし町内を案内。地元の小さなスーパーでは大きくて安価な九州野菜に目を見張り、鮮魚売り場ではめずらしい尾頭付きを持ってはしゃいでみたりと、予想以上に楽しんでいた。特にM兄弟は他の地でも行くことのなかった地方のローカルマーケットが予想だにせず面白かったと見え「Wow〜!」「Cool!」「Amazing!」と終始オドロキ笑顔。「そんなに??」と訊くと「Sure!」と返って来た。


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次は僕が関わるゲストハウスで一服し、すぐ裏の浜辺に出てフォトセッション。その後6人乗りユーロバンに乗っけての島へドライブ、高台から海が臨める神社に行くとマトソン兄弟は「Beautiful!」を連発。カリフォルニアの美しい海辺から来た彼らにも博多の海や森が荘厳に映った様子、なぜかこちらも自分が褒められたような気分になり嬉しくなった。


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本来ならリーズナブルで美味しい知人の食堂でシメるコースなのだが、当夜がライブだったため天神に出やすい駅まで送り、晩に再会して観演させてもらうということに。タウン誌『シティ情報Fukuoka』のエンタメ担当者Sさんと入場、会場は小ぶりながら二階席もある劇場スタイルの造りで、グッドサイズの私感。鑑賞する側にとっては演者の息づかいも聴こえるようなこのくらいがベスト。ステージに上がる前M兄弟にエントランスでバッタリ、僕を見つけるなり「ツアーコンダクター!」と握手を求めて来た(笑)すでに後ろまで埋まっていたが、ステージ横のモニターまで進み出ることに。

新譜を聴いていて、一体どんなふうにステージで演るのだろうと心配したが、それも及ばずとても上手く再現していた。そりゃあプロだからねと思い直すが、それでもあの手の曲をこの誤摩化しの効かないキャパでじっくり観せるのは結構大変なはずと改めて感心。ここ何年かの間、ライブを観ていると20分を待たずに飽きてしまう悪い癖も、いろいろなタイプの曲で構成する彼らのステージでは発症しなかった。それに加え夫婦漫才張りのMCが本気で面白い。これは実際に観てみないと判らないので文字に起こしません(笑)

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また、Mattoson2が自らのナンバーを二人で演奏するという間もあり、個人的に以前からファンだった僕にとってはまた楽しめる時間だった。演奏中もステージ端にいたこちらにたびたびアイコンタクト、日中のアテンドが相当ウケた様子(笑)

伴侶と共に表現者として全国を巡り各地で温かく迎えられ、その地その地の景色や食べ物を愉しめるなんていう職業はそう多くはない。若気の至りで好きになったポップミュージックを生涯の生業にするなんて、年齢が高くなってゆくにつれ肉体的にも精神的にも辛くなるものだろうと思っていたけれど、彼らを見る限り必ずしもそうとは言えないとしみじみ感じた。苦労も多々あろうが総合的に見ればやはり羨ましい職業である。

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それにしても、あの時楽屋にレコードを持って来た少年が海外ミュージシャンにファンがいるような音楽家になり、九州に移り住んだ僕の家へツアーついでに遊びにやって来る日が来るなんていったいあの日の誰が想像しただろうか。縁は異なものというが、未来もまた異な縁を連れて来るものだ。彼が歌っている姿を間近で観て、そんなことが頭を巡ったエスペシャリティな夜であった。

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(ライブ写真提供 / 根石桜)


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